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15年目の夏~Kちゃんから教わったこと~(3)

【これからも私たちにできること】


☆改めてこの15年を振り返って・・

改めて、この15年間をKちゃんの思い出をふまえて振り返ってみると、正直複雑な想いです。この間、私がいったいKちゃんに対してどれだけのことができたのだろうと思うからです。
時々Kちゃんのことを思い出したりはしたけれど、具体的な行動としてはほとんどしてきた実感はありません。


☆日本における自殺を取り巻く状況

 今、日本では、若い世代(15歳~39歳)の各世代の死因の第一位は“自殺”となっており、特に15歳~34歳の間で自殺が死因の1位を占めているのは、先進国では日本のみ(※平成30年自殺対策白書・厚生労働省刊より)という驚くべき結果になっています。
 
 今各方面で自殺対策として様々な試みが国・民間・市民の間でなされていますが、自殺を生み出すこの社会環境が抜本的に変わらない限りは、自殺をなくすことは難しいかもしれません。しかし、今この瞬間にも自殺という選択肢を選ぶ人がいる現状で、ただ手をこまねいているわけにもいけません。私たち一人ひとりが、少しでも自殺という選択肢を選ぶ人が少なくなるように日々何かをしていく必要があります。


☆自殺をなくるために出来ること

自殺をなくすためにできること、いったい何があるでしょうか?厚生労働省が出している「自殺予防のための行動~3つのポイント~」では、①周りの人の悩みに気づき、耳を傾ける。② 早めに専門家に相談するように促す。③温かく寄り添いながら、じっくりと見守る。
 どれも大切なことです。全く異論はありません。

・・・と、当たり前の正論をあえて述べさせていただきましたが、「自殺をなくす」。極めて大事な当たり前の命題ですが、私は何か違和感を感じるのです。心のどこかで「本当にそれだけで良いのかな?」という思いを感じるのです。

 私たちは一人の人間として、自殺のない世の中を築いていかなくてはなりません。しかし、Kちゃんという一人の人間と同じ生の時間を共有した私たちには「自殺のない世の中を」ということにとどまらない何かが求められている気がするのです。


☆”死”という事実に覆い隠される当該者の”生き様”

よく、漫画でも小説でもキャラクターが命を落とすと「〇〇の死は無駄にはしない・・」という言葉が出てきます。志としてはとっても素晴らしいと思いますが、じゃあ逆に、その「〇〇の死」ではなく、逆に“生”についてはどうなのか。

私たちは、人が亡くなるとその圧倒的な喪失感から当事者の“死”についてとらわれすぎて、逆に“生”について考えることが疎かになってしまいがちになるのではないでしょうか。個人が亡くなるまでの生きざま、Kちゃんの場合は、20年間のその生きざまの中にこそ、本当に無駄にしてはいけない、受け継ぐべきものがあるのではないでしょうか。


☆改めて私たちにできること~故人の生き様から学ぶ~

Kちゃんと私との付き合いは、実質的には1年にも満たない期間だったけど、その中で私がKちゃんから学んだものは決して少なくありません。

前回のブログで紹介したKちゃんの言葉は、形を変え、私自身の周りの人にとっても大きな影響を与えてくれたという実感があります。個人情報の都合上その事例はこの場で紹介できないのがとても残念ですが、確かにこの15年間、Kちゃんの生きざま、そして残してくれた言葉が多くの人の支えとなってきたのです。

Kちゃんの死から15年。もう二度とKちゃんのような悲しい事例を起さないように私たちは努力していかなければなりません。

そしてそれだけではなく、Kちゃんの生に直に触れた経験の私たちに求められているのは、彼女の生きざまから学んだ経験を、多くの人に還していくこと。きっとそれが私たちに課せられた使命なのだろうと思います。

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15年目の夏~Kちゃんから教わったこと~(2)

【私が知っているKちゃん】


ここからは、私自身が知っているKちゃんの記録です。


☆Kちゃんとの出会い


私自身がKちゃんと初めてあったのは、私が大学2年生の春のことでした。Kちゃんは大学入学をして、一番最初に所属したのが大学の学生自治会でした。Kちゃんのお父さんの話だと、当人が高校3年生の時には生徒会活動に熱心だったと言っていたのできっとその影響だったのだと思います。
学生自治会には、私たちが所属していたサークルのメンバーも何人か参加しており、そのつながりで、Kちゃんは私たちのサークルにも所属することになりました。

当時、私たちの所属していたサークルは、構成人数が比較的多かったため、毎週行われる定例会は2グループに分かれて活動していました。私とKちゃんは別のグループだったので、日常的に接する機会はそれほど多くはありませんでした。

そんなわけで、Kちゃんとの具体的なエピソードはそれほど多くはないのですが、しかし私自身Kちゃんからはとっても大事なことを教わったという気持ちを持っています。



☆社会運動への誤解と偏見


少し話がそれますが、私たちの所属しているサークルは大雑把にいうと社会運動、具体的には最近話題になったSEALDsをイメージしてもらえれば一番わかりやすいかもしれませんが、学びを中心に、そうした社会活動も行っていました。そうした類の運動をしている団体・個人にとって常につきまとうのは、周囲からの偏見や誤解の目です。SEALDs自身も、数々のバッシングの対象となっていましたが、私たちもそこまでひどくはないながらも、周囲のそうした偏見や誤解などの目にさらされることがありました。

SEALDsの活動に対して実際にあったバッシングの一つとして、「SEALDsに関わると就職が不利になる」というものがありました。(※この指摘の事実についてはSEALDsの当事者からも否定されています。)

社会への異議申し立てを命題とする団体については、常に周囲からそうした指摘や目を向けられるこの世の中なので、就職活動が厳しさを増す社会背景も伴って、真実がまだわからない新しい仲間にとっては、こうした噂や風刺は大きな不安材料でしかありません。

私自身、こうした活動に参加することで、実際に就職に不利を抱えた事例というのは稀だということを理解していながらも、自分以外の他者に対して、自分と同じ道に誘うこと、具体的には仲間としてこのサークルに誘うことに対しては、一歩踏み切れない思いを抱えていた時期でもありました。



☆Kちゃんから教えてもらったこと ~相手の想いを本当の意味で実現できる場所~


 Kちゃんたち新しい仲間が増えてから2か月程度たったある日、サークルの仕事の関係で、偶然Kちゃんを含めて数人の仲間が一緒に作業をしていた時のことでした。

 いつもと変わらず何気ない話をしながらみんなで作業を進めていた時に、たまたま将来の話題になり、Kちゃんが「私、教師になりたいなって思ってるんですよね」と口にしました。
私たちのようなサークルが就職活動に関して、不利になってしまうという偏見などがつきまとうということは、先ほど述べた通りですが、この時、Kちゃんに対して先輩が、そうした懸念への配慮もないまま「こういう活動していると先生になれないかもね」などと冗談とも本気ともとれない軽口のようなことを言ってしまったのです。

先輩が口にした瞬間、私自身、「なんでそういうこと言うかな」って怒りとともに、そのことに対するKちゃんの反応が心配になったわけですが、予想に反してKちゃんの反応は特に迷った素振りもなく、「それでも続けますよ。」との一言だったのです。正直私もKちゃんがそういう反応を返してくるとは思ってもおらず、とても驚いたことを覚えています。

あの時、迷った素振りも見せず、「それでも続けます」と答えたKちゃん。きっとあの時Kちゃんは、自身が教師になることが目的ではなく、自分が教師として本当の意味で良い教育をしたいと思っており、そのためにいまこの場所を必要としている。だから迷わずに「続けますよ」と答えたのだろうと私は考えています。

 このサークルでの活動は周囲からの偏見や誤解の目を受けるかもしれない。でもこの場所でともに学び、活動することは、本当の意味で自分の良心を実現することにつながる。私はそのことをあの時のKちゃんの姿を見て気づかされました。

この時の衝撃はいまでも忘れられません。Kちゃんのこの一言があったからこそ、初めて私はこの活動への参加をよびかけることは、相手の想いに本当の意味で応えることなんだと思うようになり、それまであったよびかけへのわだかまりを解消することができたのです。



☆垣間見えるようになった変調のきざし


その後に行われた8月の合同の定例会で、Kちゃんとはまた顔を合わせる機会がありました。その定例会の冒頭で、Kちゃんが「最近ちょっと気分の浮き沈みが激しいんですよね・・」ってうかない顔で話をする場面がありました。

いま思えば、この頃からKちゃんの変調が私たちの眼前でも表れ始めていたのかなと思います。
実際にその後、8月の終わりに開催された合同の定例会後に先輩が気づいて私に教えてくれたことですが、この時Kちゃんの腕にリストカットをしたような跡があったというのです。この時は、自分の目でみたわけでもなかったし夏休み中でそれほど会う機会もなかったので、私自身そこまで気にしていませんでした。

9月の末に行われたキャンプ合宿では、Kちゃんも参加し、夜に行ったきもだめしでは、Kちゃんが仕掛け人となって、夜中の真っ暗な廃屋のトイレの中に1人潜んで来た仲間を脅かすなど比較的元気な側面がみれたので、まあ大丈夫かな・・と私自身思っていました。



☆最初で最後の事件と活動休止


 そんな最中の10月のことでした。突然先輩からKちゃんがアパートの前で倒れていたという報告がありました。直接の原因はいまでもよくわからないのですが、早朝にKちゃんがアパートの前に倒れているのが発見され、救急車で搬送されたということでした。

 この頃、Kちゃんは相当体調が良くなかったということは間違いなかったのだと思います。
 この事件のすぐ後に、Kちゃんのお父さんから連絡があり、「サークルをやめさせて欲しい」という旨を伝えられました。
 
 その後、Kちゃんの扱いについては、詳細な記録がないので、はっきりとしたことは言えませんが、ただ辞めさせるのも心配だということで、当面活動休止状態とし、学生自治会の活動は継続する形をとったように記憶しています。

 当然、この事件を知ったサークルのみんなは驚いていました。事件のあとの定例会で、Kちゃんのお父さんから直接連絡をもらった先輩が、お父さんから離されたKちゃんの体調の現状についての報告をしてくれたのですが、その時はじめて私はKちゃんがメンタルの病気を抱えていて、精神科に通院していることを知りました。

 仲間うちでは、活動休止の状態とはいえ体調が気になるので、時々サークルとしても声をかけることを確認してその日は解散しました。

 その後、私がKちゃんと顔を合わせたのは、事件から1か月半後のやきいも企画の時だったと思います。久しぶりにKちゃんと会ったので、「体調はどう?」「大丈夫です。」くらいしか声をかけられなかったのですが、さつまいもに新聞紙とアルミホイルをまくKちゃんからは、以前のような覇気はまったく感じられなかったのをよく覚えています。

私がKちゃんとまともに話をしたのはおそらくそれが最後のことでした。Kちゃんが2年生になってからは、何度か挨拶をしたくらいで、それでもKちゃんは2年生の時は学生自治会の副会長を務めていたと思うし、しかし3年生になるときには自治会にも顔をださなくなったという話を仲間から聞いていました。


☆最後の出会い


 そして最後に私がKちゃんを目にしたのはKちゃんが3年の春に、コンビニで買い物をしている姿でした。その時の雰囲気は今でも忘れられません。その時のKちゃんの表情にはまるで精気がなく、能面のような表情をしており、声をかけるのをためらうほどでした。私自身はコンビニの外から見ただけでKちゃんが何を買おうとしていたのかはわかりませんでしたが、後々に気になってその場所を確認してみると、包帯やばんそうこうなどの医薬品が並んでおり、明らかに体調が良くなかったことは一目瞭然です。

 
これが私がKちゃんを見た最後となり、その数か月後、Kちゃんは自ら命を絶ちました。
今でもあの時に一声かけることができていればと思うと悔やんでも悔やみきれません。

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15年目の夏~Kちゃんから教わったこと~(1)

昨年7月に祖父・11月に母が亡くなりました。
それぞれ99歳と63歳。身近な家族が亡くなるということ、自分にとって家族とはということを嫌というほど考えさせられた1年でした。

母の闘病については、また落ち着いたときに書きたいと思います。

そんなわけで、母が亡くなったために、今年の6月に私自身、実家に戻ってきました。

引っ越しの際に、昔書いた日記等が出てきて、ブログにもまだUPしてなかったものも散見されたので、順次掲載していきたいと考えています。

今年もまた夏がやってきて、日本各地で経験したことのないような暑さが私たちを襲っています。連日40度近くまで気温が上昇する毎日、みなさんも体調管理には気を付けてくださいね。



【15回忌を迎える後輩のお話】


 ところで来週の2018年8月29日に、大学時代の後輩が亡くなってから15回目の命日を迎えます。1級下の埼玉県出身の女の子だったKちゃん。今から15年前、本人が大学3年生の夏に自ら命を絶ちました。

 同じサークルの後輩だったKちゃんとは、亡くなる1年半前、Kちゃんが大学1年生の冬くらいからほとんど顔を合わすことがありませんでした。Kちゃんが大学1年生の夏くらいから、私たちの前でもKちゃんの体調不良が顕著になってきて、本人もサークルを休みがちになってしまったためです。

 結局、Kちゃんは大学3年生の夏に亡くなってしまったわけですが、その連絡を聞いたときは本当に「まさか・・」という気持ちでした。
私自身、Kちゃんが亡くなったときに、別のサークルの大会期間中だったこともあり葬儀には参加できませんでした。それでも「一度お線香をあげに行きたいな・・」という想いはずっとあって、結局亡くなった4年後の夏に、勇気をもって、Kちゃんの実家に足を運ぶことができました。。

Kちゃんのことは、このブログの初期に少し触れたことはありますが、詳細については書いたことがありません。今年が15年という節目の年ということもあり、彼女のことを忘れないためにも、今回少し長くなりますがここに書き留めておきたいと思います。

今回掲載させていただいたのは、私がKちゃんの実家を訪問した後に、私が書いた日記をもとにそれを加筆・修正したものです。
なるべく人物が特定されない範囲で事実をなるべく正確に記述できるように心がけましたが、ところどころ読みにくいところがあると思いますが、ご了承いただければ幸いです。


【あれから4年後・・はじめての訪問】


 2003年の8月、Kちゃんが大学3年生の時に亡くなってから4年経った2007年の夏、今回はじめて私はKちゃんの実家を訪問することができました。本当はもっと早く訪問したかったのですが、なかなかその一歩が踏み出せず、4年もの月日が経過してしまいました。

 Kちゃんの実家は、埼玉県の郊外の街の中にありました。駅を降りるとおそらく新装したばかりであろうロータリーが広がっていて、一見都会らしい雰囲気を感じさせますが、駅から少し離れると田んぼが一面に広がる片田舎の風景も垣間見ることのできるような街でした。都会過ぎず田舎過ぎず。住むには良いところだなと思いました。

 実はKちゃんの実家の情報は住所しか知らなかったので、事前にGoogle mapで調べた地図だけが頼りでした。そうはいっても駅からだいたいの距離と方向はわかっていたので、Kちゃんの生まれ育った街になるべく直に触れてみたいという気持ちもあり、電車を降りてからは公共機関は利用せず歩いていくことにしました。
駅からKちゃんの実家まではおよそ1時間30分程で到着することができました。

 玄関の前に立ち、深呼吸をしてからインターホンを押すと、若い男の子が出迎えてくれました。Kちゃんには弟さんがいると聞いていたのできっとその弟さんだったのでしょう。その後すぐにお父さんが出てきてくれて、私を居間に招き入れてくれました。

 
【父親から見たKちゃん】


 お父さんに居間に案内してもらい、腰を下ろして部屋を見回すと、すぐ横に仏壇があり、飾ってあった位牌には“平成15年(2003年)8月29日”と書いてあったので、おそらくそれがKちゃんの位牌だったのでしょう。

 お線香をあげさせていただいた後に、お父さんからKちゃんの小さい頃からのお話を聞かせて頂きました。

 Kちゃんは、平成5年、おそらく小学校4年前後の時に、自宅が全焼するという事件を経験していました。当然、Kちゃんもとてもショックを受けていたようです、あと、その火事のせいかどうかはわかりませんが、Kちゃんがお母さんを早くに亡くしていて、弟さんとともに、父親の男手ひとつで育てられたとのことでした。

 Kちゃんは小さな頃から絵を描くのが好きで、高校時代では、最初の2年間は絵画部のようなものにも入っていたと言います。3年生になってからは生徒会の方に熱を入れるようになったそうですが、将来は「絵に関する仕事をしたい」と夢見ていたそうです。

 Kちゃんの様子が明らかに変だと、お父さんが初めて気づいたのは、Kちゃんが高校2年生くらいの時だったそうです。この頃、お父さんにも内緒で、一人で勝手に精神科のクリニックへの通院を始めていたということで、お父さんも驚いたようです。

そしてこの頃から徐々に、この精神科のクリニックへの受診のことだけにとどまらず、大事なことは何も相談してくれなくなったとのことでした。お父さんが心配になり、ちょっと突っ込んで聞いてもKちゃんは適当に嘘をついてはぐらかしてしまうことが度々で、お父さん自身もこの頃からKちゃんのことは良くわからくなってしまったとお話していました。

 Kちゃんが高校を卒業し、大学進学の際には、お父さんもKちゃんのことが心配だったために、自宅から通える範囲の大学に行ってほしいと思っていたようでしたが、合格の可否の都合上で県外の大学にしたそうです。

 Kちゃんは、大学に進学後も相変わらず精神科のクリニックには通院していたようです。Kちゃんの精神科通院のことは、本人の口からは一度も聞いたことがなかったので、本人としては周囲に知られたくない気持ちが強かったのかもしれません。

進学後、医療費の通知書が家に届く度に、徐々にKちゃんの内服の副薬量が増加していることにお父さんは気づいており、平均して月に1万円、多い時には2万円ちかくにのぼることもあったそうです。

 そうした心配する気持ちを傍らに、結局、本当に残念な結果としてKちゃんは亡くなってしまいました。

亡くなった後、Kちゃんの大学の友人も何人か訪ねてきてくれたそうで、その子たちの話してくれたところでは、大学時代のKちゃんは何事に対しても無気力な印象があったということ。また、Kちゃん自身の意志で、うつ病の自助サークルにも顔を出しており、そうしたつながりの友人も何人か家を訪ねてきてくれたそうです。

お父さんから私が聞いた話は以上のような内容でした。

改めて、私が知らない事実がとても多かったことを痛感させられました。
お父さんにはお礼とともに、大学時代にKちゃんが映っている写真を何枚か渡し、帰路につきました。

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パフォーマンス化するこの社会

☆アメリカのシリア攻撃に関して

 4月6日夜、アメリカのトランプ政権は、シリア北西部イドリブ県で起きたサリンとみられる化学兵器の攻撃で少なくとも子供27人を含む72人が死亡したことを受け、シリアのアサド政権の関連施設に巡航ミサイルで攻撃しました。

すでに、シリアの民間人が多数死傷したことが報道されており、世界中から批判の声があがっています。

化学兵器の使用はもちろん許される行為ではありません。しかし、アメリカのトランプ政権は、事実検証もなく、国連安保理の決議もないまま一方的に攻撃を強行したことは、国際法にも反するものであり、シリアの内戦をさらに悪化させることにしかならないことは明白です。
これ以上の軍事攻撃は絶対に起こさないことを切に願います。


☆想定された帰結であったシリア攻撃

 今回のアメリカのシリア攻撃に関しては、トランプ大統領がこの間、IS壊滅のために、ロシアやアサド政権と協力関係を構築する方向性を示していた流れから見れば”寝耳に水”の出来事でした。

 しかし、もともと米国がアサド政権を敵視していたことや、トランプ政権自体が軍事政権ともいえる性格を持っていたことからみればそれほど不自然なことではないのかもしれません。

 現に、ニューズウイークによると、直近の2017年1-3月の間に、米国が率いる有志連合がシリアにおいて出している民間人の死者が急増していたことが報道されています。有志連合は、2016年1年の間に出した民間人の死者が537名であったのに対し、今年の1-3月の3か月だけで既に469人もの民間人の死者を出しており、IS殲滅が名目とはいえ、シリアに対する軍事的な強硬姿勢が今年に入りすでに強まっているのが明らかな状況でした。


☆トランプ政権による支持率回復のためのパフォーマンス

 しかし、問題なのはこのシリア攻撃がいったいどんな理由で、なぜこのタイミングで行われたかということです。

 真相が明らかになるのはこれからのことですが、私はその理由の一つとして、この間急激に落ち込んでいたトランプ政権による、支持率低下の打開策としてのパフォーマンスという目的があるのではないかと考えています。

 この間、トランプ政権の支持率は急速に落ち込んでいました。
インベスターズ・ビジネス・デイリー(IBD)とテクノメトリカ・マーケット・インテリジェンス(TIPP)が先週行った最新の調査によると、トランプ大統領の支持率は34%で、3月の44.1%か ら10.1ポイントと急落傾向を示しました。要因としては、この間のアメリカ大統領選に関するロシアの介入疑惑、そしてオバマケア代替法案の失敗などが主だった点だと思います。

 こうした中、トランプ政権は急落支持率に対する歯止めの打開策を求めていたわけですが、そんな中、シリアの生物化学兵器使用の問題は、”渡りに船”の出来事だったのではないでしょうか。

 ロシアとの協調を示しているシリアのアサド政権に対する軍事攻撃を行えば、ロシア疑惑について一掃することができますし、軍事攻撃の名目を「米国の安全保障上の死活的な利益にかかわる」と得意の「アメリカファースト」を謳えば、米国民からの求心力を高められる。今回のシリア攻撃にはそうした思惑があったのではないかと思うのです。


☆人命を無視したパフォーマンス主義-トランプ政権と安倍政権の共通項-

 もし、今回のトランプ政権によるシリア攻撃の理由がその通りだったとすれば、トランプ政権は自分たちの政治基盤の安定のためだけに、シリアの多数の民間人を犠牲にしたということになります。決して許されることではありません。

 「Post Truth」

 しかし、トランプ大統領自身が「何が真実かということではなく、大事なのは、有権者が何を見たいと思っているかだ。」と、嘘と欺瞞こそがトランプ政権の公式なプロパガンダということを隠さずに公言する中で、今回の人命を無視したパフォーマンスは、残念ながら必然の出来事だったといえるのかもしれません。

 こうした非道なトランプ政権のシリア攻撃に、安倍首相はすぐさま『支持』を表明。きわめて重大な態度だと言わざるをえないでしょう。

 私が気になるのは、こうしたトランプ政権の人命を無視した政権の利益が第一のパフォーマンス主義ともいえる態度でいえば、トランプ政権と安倍政権は極めて共通した性質を持っているように感じることです。

 具体例を挙げるのであれば、先日の南スーダンPKOからの自衛隊の撤退表明が挙げられます。
撤退表明する直前まで、安倍政権としては、自衛隊派遣の正当性を国会でも繰り返し正当化していたにも関わらず、森友学園問題で政権の支持率が急速に落ち込むや否や、一転して、南スーダンPKOからの自衛隊の撤退を表明。

 このことは、まさしく自衛隊員の命を無視した人命無視の政権の利益を最優先にしたパフォーマンスとしか言いようのない行動でした。

 アメリカと日本という、世界的にも影響力のあるこの2国の政権が揃って、人命軽視の政権の利益最優先のパフォーマンス主義にはしっている。このことに対してこれまでにない危機感を募らせているのは決して私だけではないでしょう。

 いまこそこうした無法な政権運営をストップさせる力が今国民の側に求められているのではないでしょうか。

未就労者の実態と”意欲の貧困”(補稿)

☆”意欲の貧困”についてもう少し立ち入って

意欲の貧困についてもう少しだけ立ち入って書いておきたいと思います。

先の(2)の記事の中で、「”意欲の貧困”を抱える者にいくら檄を飛ばそうとも、それによって簡単に”できる”と思えるはずがありません。 彼/女らは、他人から叱咤激励されるまでもなく、その何百倍も、日常的に、自らに対して叱咤激励を飛ばし続けているのであり、そのストレスによる精神の摩耗が”意欲の貧困”をもたらしている面が大きいのです。」

と書きました。

こうした”意欲の貧困”を抱えている当事者が、具体的にどのような精神状態に陥る可能性があるかについて、湯浅誠氏は別著(「生きづらさ」の臨界”溜め”のある社会へ」旬報社 湯浅誠・河添誠編)でもう少し詳細に述べています。
※以下本文引用

「(意欲の貧困を抱える若者たちは)身体が思うように動かない中、自らを叱咤激励して、これまではなんとか持ちこたえてきた。しかし、それが限界に達する。いままで働いてきたのだから、働けないことはないと感じる。家族や周囲もそう見る。しかし社会保障には彼/彼女を受け止める準備がない。進むことも退くこともできない中、生活が立ち行かなくなる。

注意すべきは、この時、人は一時的に『病気を忘れる』ということだ。生きることに必死になったとき、自分の体が発する信号に意識的・無意識的に蓋をするためだ。そして一時的に『元気』になる。”もやい”にくるときには、そうした状態になっている人が少なくない。しかし、それは回復・治癒とはちがう。その『元気』は、疾患に蓋をしただけの、より悪化した状態である。そのため、生活保護申請などを通じて収入を確保し、生活が落ち着くと、もう一度元の疾患をぶり返す。

しかしそのプロセスを知らない人、見ようとしない人は『やればできるじゃないか』と言い、その極度の緊張状態を常態化することを求めてくる。また、ぶり返した本人の脱力状態をみて『生活保護を受けると甘えて働かなくなる』と言い、本人を叱責し始める。それが回復のプロセスなのだということを理解できない。そうした、ようやく回復し始めた本人を追い詰め『自立』から遠ざける。」


☆十分とは言えない”意欲の貧困”を抱える当事者の精神状態への理解

 上記の通り、湯浅氏は、”意欲の貧困”を抱える人たちを援助していくにあたり、貧困を生み出している社会構造そのものを理解することと同時に、その社会構造が当事者にもたらす精神状態についても理解する必要性を指摘しています。”溜め”という言葉はそのためにつくれられたのだといいます。

 しかし、この社会構造が本人にもたらす精神状態については、実践的にはまだまだ理解されているとは言い難い状況にあります。
 こうした人たちに個別に関わる機会のある人たち人には一定程度理解されてはいると思いますが、その蓄積はまだ活動全体には位置づけれられておらず、「理解のある人」「やさしい人」といった活動家のキャラクターの問題に片付けられている面があり、運動の進展のために必要な視点という位置づけが与えられていないことを同時に湯浅氏は指摘をしています。


☆”社会的告発”と”個別的ケア”の優先度をめぐる対立

 他方で、こうした”意欲の貧困”を抱える人の精神状態がわかる人たちは、そのケアワークに特化し、社会構造的な問題に踏み出しにくい、という別の問題もあります。

(当事者に対して)”溜め”が非常に小さくなっている状態を理解できると「いまは本人も大変、精一杯」ということになり、本人に寄り添う方向に自分の役割を見出します。それはそれで膨大な時間と労力を要することなので、本人対応に手一杯となり、社会的な問題提起まではなかなか至りません。結果としてその問題が外に伝わっていかないことになります。

 だれにとっても一日が24時間しかない以上、こうした帰結はある意味では不可避のものですが、しかし、では両者がお互いの活動を全体像の中に位置づけ、相互に自分たちの足りない点を補ってくれるものだと尊重し合っているかというと、残念ながらそうなってはおらず、むしろ根強い相互不信があるのが実態だと思います。

 そういった問題は例えば、「何かの集会で発言する当事者を探す」そういった時などに顕在化します。社会的な関心が高い人は、「社会的に訴えることによって世論を変える」といった点を重視し、発言を後押しし、説得する側に回りますが、個人的なケアに関心が高い人は「本人に余計なプレッシャーを与えるだけ。ようやく落ち着いてきたところなのに」と消極的になる。もし両者がお互いの主張にこだわれば、「そんなこと言っていたらいつまで経っても社会は変わらない」「目の前の個人を大切にできない活動に未来はない」と突きつけ合いに終わるでしょう。


☆運動側が抱える”対立”を解消していくために

未就労者の実態と”意欲の貧困”の記事を通して私が伝えたかったのは、
一つは”意欲の貧困”を抱える当事者の問題は、自己責任論を突きつけるだけでは何も解決しないということ。
二つ目は、こうした当事者の精神状態への理解の促進。
そして三つ目に、”意欲の貧困”を抱える当事者の問題の解決をめぐって、運動側が抱えているこうした”対立”の解消についてということでした。
 
 こうした運動側の”社会的告発”の機能と”個別的ケア”の機能というものは、どちらかが正しいという類のものではなく、当然のこといずれも必要な機能であることは間違いがありません。
 そして、”社会的告発”と”個別的ケア”の機能は、別個に存在する類のモノではなく、統一的に実践される可能性があると私は考えています。
 
 過去にこのブログの記事にも少し書きましたが、(「戦争体験を聞く企画に参加して②-心的外傷と回復-」http://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2016-08-30-1)ジュディス・L・ハーマンは、傷を負った人当事者の中には、より広い世界にかかわる使命を授けられたと感じる人がおり、将来自分と同じような傷を負わないように教育や政治などの各方面などで、公衆の意識を高めるため(社会的告発)に献身する人が存在することを指摘しています。

 当事者はそうした実践を経ることで、自らを支え共感し、支援してくれる他者との関係(個別的ケア)に絆を見出し、この社会には、まだ傷をいやしてくれる愛が見いだせると希望することにより、回復が図られることも同時に指摘をしています。

 このように、ハーマンは、”社会的告発”と”個別的ケア”の機能を、当事者を中心に統一的に実践する可能性を見出しており、実際にこの点を意識して、自立生活サポートセンターもやいと首都圏青年ユニオンなどは、共同して10数年前から実践を行ってきています。

 良心に従って、この世の中の社会構造とその社会構造によって生み出される”意欲の貧困”などの精神状態に陥ってしまった人たちの問題を解決しようとする多くの人たちの間に、救済しようとしている貧困の当事者をめぐって、更なる対立と悲劇が生まれるようであれば、それは誰にとっても本意ではないでしょう。

 この世の中を良くしようと日々努力されている多くの人の良心が、適切な形で実現されるように、もやいや首都圏青年ユニオンが積み重ねてきた実践などが、幅広く交流され、今後もより発展した運動が各地で展開していくことを願い、今回の記事を終えたいと思います。

 

未就労者の実態と”意欲の貧困”(3)

☆”擁護不可能なゾーン”に存在する若者たちをもカバーするために求められるもの

 前の記事で紹介をした、田原さんの場合、未就労状態ではありましたが、4回も就いた仕事を全て1日で辞めてしまったとはいえ、就職活動自体は行っていました。

そして、(1)の記事では逆に、未就労状態であり、かつ就職活動もせず就業を希望していない”非希望型”が増加していることに注目しましたが、ここに属する人たちも、それぞれに理由があるとは言え、就業を希望していない以上、世間一般からは、田原さんと同じように「努力していない」「意欲がない」というみなされる可能性が高い人たちです。そしてこの中には、”意欲の貧困”という困難を抱えている方も相当数内包している可能性が高く、また、いわゆる擁護不可能な”ゾーン”に存在するという点では共通しているのだと思います。

 先の(2)の記事では、”意欲の貧困”は、「甘え」や「怠惰」といった次元の、自己責任でどうにかなる問題ではなく、ましてやそのことをバッシングすることでは何も解決はしないということを指摘しましたが、こうした”意欲の貧困”を抱えた未就業者の人たちをもカバーできる議論を展開していくために私たちには一体何が求められているのでしょうか。


☆「貧困」とは”意欲の貧困”をも含むもの

 まず必要なのは、私たちが陥りがちな、「貧困」=「経済的な貧困」(お金がなくて貧乏なこと)という「貧困」概念を狭義のものとしてしまう考えを改めることです。つまりは、「貧困」は「”意欲の貧困”を含むもの」として貧困論を再構成することが求められます。

 「貧乏だったが、苦境に負けずに頑張って今の地位を成した」といった成功物語は、貧困を貧乏(経済的貧困)に縮減し、メンタルな問題を切り離すことで成立しています。それは、メンタルの問題が依然として社会構造的な問題ではなく、個人的問題へと領域分けされていることの証左であり、”意欲の貧困”はいわば心理主が他の人たちに比べ小さいのが貧困だといえます。

 「意欲はあるのに仕事がないだけ」「こんなに頑張っているのに報われないのはおかしい」といった議論は、現実は、格差を批判しようとする意図に反して「意欲」を個人的・心理主義的解釈に押し込めてしまい、「意欲の貧困」を抱える現実の貧困者を周辺においやってしまう可能性があるのです。


☆”溜めのない状態”としての貧困

貧困は基本的に経済的生活困窮状態の問題に還元すべきではありません。

 アマルティア・センは上記のような見解を批判して、貧困を「基本的な潜在能力(capability)が剥奪された状態」と定義しています。湯浅氏は、同様の視点から貧困を「相対的な”溜め”のない状態」と定義しています。

”溜め”とは、人を包み外界の刺激からその人を保護するバリヤーのような存在です。たとえば、貯金などの金銭的な”溜め”、家族・親戚・友人といった人間関係の”溜め”、ゆとりや自信などといった精神的な”溜め”、そして自己責任論を批判的に捉え返すことのできる知識・知性も重要な”溜め”だといえます。

人はそれぞれ人なりの”溜め”を持ち、”溜め”に包まれて生きています。その”溜め”が他の人たちに比べ小さいのが貧困だといえます。

 「意欲の貧困」はこの”溜め”のなさのひとつの表れであり、別の有形有無の”溜め”と密接に関連している状態といえます。強い家族的紐帯、または親友たちの励ましのもと、経済的困窮状態に立ち向かい克服したといったサクセスストーリーは、「誰だってその気になればできる」ことを示しているわけでは決してなく、人間関係の”溜め”が、時には経済的貧困に打ち克つほどの重要な”溜め”の機能を有していることを示しているのだと思います。


☆最後に・・

 今この世の中で、未就労状態におかれている人は数多くいます。人によってはせっかく就いた仕事をすぐに辞めてしまい、「根性がない」ようにみえるかもしれません。また、就職活動もまったくしないで、家にひきこもっているような「甘えている」ように見えるかもしれません。

 繰り返しになりますが、こうした意欲をはじめとする貧困状態におかれている人たちに対して、その状態に甘んじていることを自己責任だとバッシングすることで何も解決はしないし、その方々がその状態に置かれていること事体がとても自己責任に収斂できるような問題ではないということです。

 一見うずくまっているようにしか見えない人に対して、バッシングをしたり、「特別な人」と排除するだけでなく、そうした方々こそ、今の社会構造の歪みが生み出している末端部分に位置する人たちと、運動側に携わる人たちがカバーしていく視点を持たなければならないのでしょうか。
 

未就労者の実態と”意欲の貧困”(2)

こうしたいわゆるグレーゾーンに存在する若者をどう捉えたら良いかについて、「若者の生活と労働世界」(大月書店)で、湯浅誠氏が非常に示唆に富む捉え方を展開しています。
以下、ほとんどこの著書の中の引用となりますが、紹介していきたいと思います。


☆グレーゾーンに存在する若者の実例から

田原俊雄さん(仮名:35歳男性)は湯浅氏の所属するNPO法人自立生活サポートセンターもやいにSOSの電話をかけてきた方の一人です。

田原さんが、生活困窮に至った経緯は、以下の通り。
2006年4月まで半年ほど下町の小さな製造工場で正職員で勤務。しかし4月に風邪をひき、それが長引いて10日程欠勤。連絡は毎日入れていましたが、電話で即日解雇を言い渡されます。その後彼は三ヶ月間、ほぼ毎日ハローワークに通い、三ヶ月の間に産廃処理工場など計4回採用されます。しかし彼はその全てを1日で退職。

話を聞けば、どの仕事も「自分についていけるとは思えなかった」とのこと。ちなみに本人には疾病や障害はなく、いたって健康であったとのことです。


☆運動側が意図的に見落としがちなグレーゾーンの若者たち

「格差」をめぐって、政治家や財界人は「勝ち組」を念頭において「(勝ち組に属する人たちが)努力しても報われない社会はおかしい」といって、格差容認論を展開しています。

一方、それを批判する運動側の人たちは、「負け組」を念頭において、「(負け組の属する人たちだって)努力していないわけではない、機会の平等が確保されていないのが問題だ」と反論します。

一見、上記のそれぞれの主張は、全く正反対の立場のように思えます。
しかし実は、”自分が擁護したいと考える対象者に正当な見返りが与えられていない”という点で、両者の主張は共通しているのです。

このことを念頭においた上で、上記の田原さんのような人を私たちはどう擁護すれば良いのでしょうか。

確実に言えるのは、「働く気はあるが、仕事がない」という理屈はこの場合通用しないことです。では、田原さんに働く気がないかといえば、それも違います。もともと働く気がない人が3ヶ月も毎日ハローワークに通い、1日で辞める仕事に4回もチャレンジするはずがないからです。

そもそも、運動側が格差容認論を批判する根拠としているのは、最初に述べた、「(負け組の人たちだって)努力していないわけじゃない」という点でした。しかし、格差容認論への反論の前提となる”努力をしている”という要件については、4回も仕事を1日で辞めている田原さんのような人々が、世間一般から認められるかといえば、正直困難だと言わざるを得ません。

 運動側の人たちにとって、田原さんのように正直努力をしていると言い難い人たちは、論拠の前提が成り立たないわけですから、実質的に擁護不可能ということになってしまいます。

だからこそ、田原さんのようなグレーゾーンに存在する人たちは、格差容認論を批判する運動側の人たちにとって、”例外”とみなされ、これまでも意図的に見落とされてきたのではないでしょうか。


☆「努力している」「意欲はある」を前提にすることの落とし穴

そして、「みんな努力しているんだ」という擁護の仕方は、他方で田原さんのような人たち当人を追い詰めていってしまうことにもなります。
「テレビに出ていた(腰を痛めてしまったという)人ならしょうがない。でも自分は違う。自分の場合はやはり自分が悪いのだ」・・と。

擁護するためのふるまいだったはずが、現実には擁護したい当の本人たちを追い詰める。”意欲はあるはず””努力している”という反論を前提にしていることが、寝坊したことのある、さぼったの事のある、健康体なのに昼間からぶらぶらしてる本人たちを追い詰めてしまいます。

私たちはあらためて正面から、「家賃も払えず、食べるお金にもこと欠くような生活困窮状態で、それでもせっかく就いた4回の仕事をいずれも1日で辞めてしまう」田原さんのような人たちをも包括するような反論建てを考えなければならないのではないでしょうか。


☆仕事に就くことと成功体験

この本の中で湯浅氏は、そもそも「仕事に就くこと」とはどういうことか?について論じています。
湯浅氏は、新たな仕事に就くとは、「会ったことのない人たちと、使ったことのない機械等を駆使して、やったことのない作業を遂行することであり、かつそれを多くの場合余裕のない人員配置の中で、「空気」をみながら無難にふるまいつつ、徐々に仕事を覚えていくこと」と指摘しています。

しかしだからといって、当然一日で辞めて当たり前とはもちろん言えません。多くの人たちは同様の状況に放り込まれ、最初は「使えない」ことを叱咤され揶揄されながら、それでも人になじみ仕事になじみ、徐々に「戦力」としての地位を確立していっているからです。

ここで言いたいのは、職場に飛び込んだ初日に未経験者でも簡単にこなせる「仕事」などというものはおそらくなく、それゆえ「自分は、いずれこの作業を無難にこなせるようになり、ここの人たちともうまくやっていける」と感じることには実は根拠がなく、それでも多くの人たちはそう信じて、現実にその未知へのダイブを遂行している、という事実が存在するということです。

ではなぜ、多くの人たちは根拠もなく「できるさ」と思えるのかと言えば、それは「やったことがなかったけど、やってみたらできた」という成功体験を生育過程で積んできたからではないでしょうか。その機会は、家庭・地域・学校・以前の職場のどこか、またはその全てで繰り返し提供されてきたはずです。

逆に言えば、そのような機会に恵まれなかった人がどう頑張っても「できるさ」とは到底思えなかったとしても、それほど不思議でも奇妙でも、またありえないことでもないと思います。


☆”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるもの

このような、いわば”意欲の貧困”とは、つまり、自分が限界まで意欲を振り絞ったとしてもそれが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域までに到達できない、という事態なのです。

田原さんにとって「どう考えても自分にはついていけない」と感じてしまうことは、病気で身体が動かないのと同じくらい自分にはどうすることもできない、コントロール不能な事態なのではないかと推測できます。
 そしてそれは、多数者の仕切りと合致しないがために、負の符牒を背負わされて「甘え」や「気合い」の不足といった根性論へと還元されるのです。

しかし、筋力のない人間が何百回「できるはず」と叱咤激励されようとも、やはり石膏ボード4枚をかついで一日中階段を上り下りすることができないように、「意欲の貧困」を抱える者にいくら檄を飛ばそうとも、それによって簡単に「できる」と思えるはずがありません。
彼/女らは、他人から叱咤激励されるまでもなく、その何百倍も、日常的に、自らに対して叱咤激励を飛ばし続けているのであり、そのストレスによる精神の摩耗が「意欲の貧困」をもたらしている面が大きいのです。

そうなれば、もう”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるものとしかいいようがありません。

このように”意欲の貧困”は、「甘え」や「怠惰」といった次元の、自己責任でどうにかなる問題ではなく、ましてやそのことをバッシングすることでは何も解決はしない、その視点を私たちはしっかり認識しておく必要があるのではないでしょうか。

未就労者の実態と”意欲の貧困”(1)

☆はじめに

 2つ前の記事で「生きる意味」というテーマでブログを書きました。

 なぜ、このようなテーマで記事を書いたのかといえば、「生産活動に携わっていない人間は価値がないのか?」という素朴な疑問を私が感じていたことがきっかけでした。

生産活動に携わっていない人というのは、一言でいえば、働いていない人、未就労者とも言い換えることができると思いますが、人間にとって働くことの意義を否定するつもりは毛頭ないにせよ、現代社会では、就労というものをあまりにも絶対視しすぎているのではないかと思うのです。

この世の中には、病気や障害のために人並みに働けない人たちが存在しますし、そして就労という形でなくても社会的に有意義な取り組みをしている人たちもたくさん存在します。

就労の是非だけに過度に価値を置きすぎてしまうと、他に見なくてはいけないものが見えなくなってしまう、そんな気がするのです。


☆未就労者に対する視線が厳しくなっている時代


そうした私の想いとは逆行する形で、現代日本において、未就労者に対する視線は厳しさを増しています。

特に2004年頃、未就労で就職活動も就学も職業訓練も受けていない若者に対して「ニート」という言葉が玄田有史氏によって生み出され、巷では”ニートバッシング”ともいうべき若年無業者への辛辣なバッシングが行われました。

2004年といえば、イラク人質事件が発生し、拘束された3人に対して政府が「自己責任だから」と突き放す態度をとったことから、日本中で「自己責任論」のバッシングが行われるなど、日本中が自己責任的な風潮へ突き進んでいった時代でもありました。

あれから10年以上の年月が経った今、世間での自己責任的な風潮はいっそう強まり、未就労者への視線も厳しさを増しています。
 

☆未就労者は働く意欲がないわけではないという対抗言説

 こうした未就労の若年無業者に対して、「甘えている」「怠惰」などのの自己責任論的なバッシングが強まる中で、これらのバッシングに対抗する運動側の言説として一般的だったのは、「そもそも働き口がないのでは?」といった、未就労者の増加の原因を社会構造に帰する論理でした。

事実、先述した玄田氏が2004年に出版した「働く過剰」では、2002年において、15歳〜34歳の未婚無業者数214万人の内、実際に就職活動をしている若者は129万人(60%)であり、就業を希望しつつも職探しをしていない若者は42万人(20%)と、就業を希望している割合は実に8割以上であり、若年無業者の8割は、就労を希望していたことが明らかとなっています。

8割もの若者が就業を希望しているのに、実際に働けていないというのは、まさに彼らや彼女らが就業機会に恵まれていない、つまり未就業者がこれだけ多くなっている問題は、そもそも働き口が存在していないという社会構造にこそ問題の本質があるというのは明らかでした。


☆対抗言説だけではカバーできないゾーンにいる若者たち


あれから10年超。現在では状況はどう変化してきたのでしょうか。

2015年の全国就業機会パネル調査では、15歳〜34歳の未婚無業者数137万人のうち、実際に就職活動をしている求職型は65万、就業を希望しつつも就職活動をしていない非求職型は12万人、就業を希望していない非希望型は60万人となっています。

なんと非希望型について比較してみると、2002年と比較して絶対数が18万人の増、(42万人⇒60万人)、そして割合としても2割の増(2割⇒4割)と絶対数、割合ともに大幅に増加傾向となっていることがわかります。

このように、”非希望型”が絶対数・割合ともに増加しているという問題は、実はこれまでの「働き口が存在しない」という対抗言説でカバーしにくいという性質があります。

就業を希望していて、かつ実際に就職活動をしているのであれば、「実際に働き口が少ないのだから未就労でもしょうがない」という風に一般的にも納得しやすいですが、就職活動どころか、就業すら希望していないというのであれば、それこそ「自己責任」「甘え」「怠惰」だという烙印を押されやすく、運動側に属する人の内部でもそうした思いを持つ人が一定数存在するからです。

だからこそ、この”非希望型”の若者をどう捉えるかという視点こそが、今運動側に属する人間にとって大きな課題となっているのだと思います。

人にとっての”還る”場所

☆はじめに

昨日はうちの母親の誕生日でした。
63歳の誕生日。
40代でがんを発症してから早15年。今日までよく元気に生きていてくれて良かったなって思う。改めて誕生日おめでとう。

話は変わって、一昨日は私の職場の飲み会がありました。
もう10年働いてる職場。でも、実は来年いっぱいで退職する希望を、この前行った面接で伝えてあるのです。
それ以降、上司には度々「残って欲しい」と飲み会の度に言われています。


☆「親をこっちによべ」という選択肢への違和感


上司が、なぜ自分に残って欲しいと言っている理由については、正直何回話を聞いてもよくわかりません。上司の日頃の発言や態度からは、私自身を必要としてはいないことだけははっきりと伝わってくるのに、実際の発言だけは「残って欲しい」と話される。その真意は私には測りかねます。

面接では、実家では、90歳過ぎの要介護状態の祖父母を、病気がちの母親が一人で面倒を見ていること。(父親は婿ということもあってあまり介護力はないのです。)かつ家事全般も母親が一人で担っている現状を話し、私自身が長男ということも含めて、実家に戻りたい趣旨を上司に伝えました。
しかし上司からは「親はこっちに呼べばよい」との一点張りで、なかなか話が伝わらないな・・という想いだけが募ります。

そうはいっても、上司だってこれまでの人生の中で、似たような葛藤を抱えながら選択を繰り返してきたのだろうし、軽々しく「親を呼べ」と言っているわけではないのであろうとは思います。しかし、「親をこっちに呼べ」という言葉を聞く度に、私は違和感を感じるのです。


☆母親の人生の軌跡と価値

話は変わって、私の母親はどういう人なのかというと、”普通の人”としかいいようがないかもしれません(笑)
母親は結婚してからはずっとパート職員として働いており、一方父親はずっと長距離運転手として今でも働いています。若いころたまたま同じ運送会社で働いていたのが最初の出会いのきっかけだったそうです。

二人の結婚後、すぐ私が生まれ、その3年後に妹が生まれます。
正直、バブル崩壊以後の長距離運転手の業界は一変し、規制緩和も相まって、正直、私の子ども時代において、長距離運転手の待遇は決して良いとはいえないものだったと思います。

私自身、子ども時代にお金に困るという経験はしたことはないけれど、それは両親の懸命の自己犠牲の賜物だったのだと今は思います。父親も母親も趣味にお金を使ったり、どこかに遊びに行ったりした姿をほとんどみたことはないからです。

母親も、もっと自分でやりたいことがあったんじゃないかな・・とたまに思うことがあります。子ども2人ともに大学に進学させてくれたけど、自分自身のやりたいことを我慢しながら、自ら病気を抱えながら、祖父母の面倒と家事全般を一人で担ってきた、それがこれまでの母親の人生だったのではないかと思うのです。

そんな母親にとっての人生は、私たち子どもを育てること、祖父母の面倒を見ること、自らの家を守ること、それらのことこそが母親のこれまで生きてきた人生の軌跡であり、残してきた価値だと思うのです。


☆人生の軌跡や価値は、生きてきた時間・場所・人間の中にこそ宿る

決して料理が好きではない母親が毎日料理を作ってきた台所、2階建ての決して狭くはないのに、ほこりもほとんどないほどよく手入れがされている部屋、そんなに仲は良くないけど、長い間自治会などの活動をしてきたご近所さんとの関係、待遇について組合を通して何度も議論の攻防を積み重ねた職場、嫌味をいう人も多かった同僚、年に1回食事会をする同級生の集まり、今でも付き合いのある私の小学生時代のPTA仲間。

そんな良くも悪くも、母親が生きてきた軌跡や残してきた価値は、そうした実家の人や物や場所にこそ宿っているのだと思います。


昔観た映画に「砂時計」というものがありました。
以下は、その映画の中で主人公の杏が語ったセリフです。

「忘れられない風景がある
その一つ一つの思い出が今の私をつくっている
あの道もあの川もあの駅も
そこであったすべてのことも私の時間を刻んだ砂時計の砂粒たち
その思い出と共に私はいまも生きていく」

そう、人間は誰だって、自分が生まれ育ち、共に生き抜いてきた時間や空間や人間とは無関係に独立して存在しえないのです。

私は、母親が生きてきたその軌跡や価値を決して否定したくはありません。その延長線上を生きていきたいと思うのです。



「あなたにはあなたの人生がある」
そう指摘する人もいるかもしれません。

確かに、今の私が自分の人生をかけてやりたいことに携わっているのであれば、実家に戻らないということも一つの選択肢として考えられるかもしれません。
しかし、今の自分にそうしたものが見いだせるかといえば、それは残念ながら「NO」としかいえないのです。

そして”誰かの人生を肯定して生きていくこと”それこそが唯一、私にとって主体的にやりたいと思えることなのです。

だからこそ、私が私の人生を生きていくためにも、「親をこっちに呼ぶ」という選択肢は出てこないし、「親をこっちによべ」という言葉についても、軽々しく言っているわけではないのかもしれないけれど、それでも親の人生の価値が軽視されているような印象を感じるし、それこそがきっと私にとっての違和感の正体なのだと思います。


☆終わりに-生まれ育ったところに”還る”権利-

最後に、私自身、保守的だと思われるかもしれないけれど、やっぱり人は自分の生まれ育った場所で学び成長し働き、結婚し、年老いて、召されていく。それが人間にとってのべージックなライフスタイルとして保障されるべきなのではないかと思います。


資本主義の社会において、資本による利潤追求のため、そして人間としての基本的な人権意識の向上のために、人間は生まれ育った土地と人間関係から解放され、どこで誰とでも生活を送ることが自由を得ました。

しかし、その自由は現代において様々な弊害を内包するものとなっています。

こうした時代において、私は今一度それぞれの人が自分の生まれ育った土地と人間関係に自らの意思でもう一度還る、いや”還ることができる”べきなんじゃないかと思うのです。

その”還る”選択肢が保障された時に、人はもう一度新たな形で大切な価値を取り戻すことができるのでは・・という風に思うのです。

「生きる意味」

「ずっと・・
ずっと考えてた

死ぬために生まれたぼくが
この世界に存在する意味って何だろうって

何も生み出すことも
与えることもせず・・

たくさんの薬や機械を無駄遣いして
周りの人たちを困らせて・・

自分も悩み苦しんで・・・

その果てにただ消えるだけなら・・

今この瞬間にいなくなった方がいい・・

何度も何度もそう思った・・

何でぼくは生きているんだろうってずっと・・


でも・・
でもね・・

ようやく答えが見つかった気がするよ

意味・・
なんて・・
なくても・・

生きてて・・
いいんだ・・
って・・

だって・・
最後の瞬間がこんなにも・・
満たされているんだから・・

こんなに・・
たくさんの・・
人に囲まれて・・

大好きな人の胸の中で・・
旅を・・
終えられるんだから・・


ボク

がんばって

生きた・・


ここで

生きたよ・・」


【Sword Art Online -Mother's Rozario-より】


上のセリフは、作品の中で登場するユウキという少女がAIDSという病気との闘いの末、天に召される直前の言葉です。


人がこの世の中に存在する意味って何なのだろう・・

原始、人が一人生きるためのギリギリの生産力しかない時代。
病気や障害を持ち、生産活動に携わることのできない人間は確かに生きることを許されなかったのかもしれない。

でも今は違う。

病気や障害自体が本人の生命活動を奪うこと以外には、生産活動に携わることができないといったような外的な要因で生存を脅かされる時代ではなくなりました。

現代は、誰もが生きていていい時代になったのです。


もし「生産活動に携わることのできない人間は価値がない」なんて風潮が現代において振りまかれているのであれば、それは人類がこれまでの歴史の中で築いてきた遺産を否定すること、つまり退化を示すもの以外の何物でもない。


「生きる意味」なるものが何なのか。
それに対する問いは、私一人が定義できるようなものではないのは明らかです。

でも、私自身が今この時代に生きていて感じることは、現代は、そのような「生きる意味」を見出す行為すら、自らの責任に還元されるような風潮が非常に強くなってきているということです。


「生きる意味」

それが何なのかは、私にもまだわからないけれど、でもきっとその”意味”は、自らの心の内だけに見いだされるものだけではなく、他者との関係の内にも見いだされるもののはず。


きっと、「生きる意味」なるものは、私が私の心の中に見出すモノと、あなたや他者が私の心の中に見出すモノが交錯する場所に見出されるものなのだと思います。


だから、もし”あなた”が、”あなた”の心の内に「生きる意味」なるものを見出せないのであるならば・・

”わたし”や他者が”あなた”の中に見出しているものを伝えること。
そのことに大きな”意味”があるのだと思うのです。












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