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”嫉妬”について(2)

≪”嫉妬”に対して私たちができること≫


これまで書いてきたことを簡潔に振り返ると、”嫉妬”というものは、

(1)自分の価値が損なわれてしまうことに対する感情的な防衛反応
(2)自分自身が価値のない存在だと感じてしまう恐怖や悲しみを誰にも受け入れてもらえない、分かち合えないことへの苦しみ
だと言えます。


世間的にいうと”嫉妬”という感情は、自分自身の未熟さやエゴに端を発するもののように捉えられていますが、上記の2点のように把握されるのであれば、一概にその感情を否定するべきではないし、その対処を当事者の意識の問題に還元できるような問題ではないのは明らかです。


”嫉妬”という感情に対して、もし私たちにできることがあるのであれば、それは当事者の人に対して”私は(あなたは)決して無価値ではない”というメッセージを伝えていくことなのではないかと思います。


具体的に言うのであれば、

(1)現代社会の競争的な価値観を組み替えていくことと、格差貧困の是正
(2)多様な個性を活かし、多様な価値観が認め合える居場所づくり
といった実践が必要になってくると思います。


もしこの先、皆さんが自分自身の中に、そして他者の中に”嫉妬”という感情を抱いていることに気付いたら、その感情を決して否定するのではなく、自身の存在価値をめぐるせめぎ合いの最中であると受け入れたうえで、「私は(あなたは)決して無価値ではないんだ」というメッセージを自分自身、そして他者に対して伝えてあげて欲しいと思うのです。


通常であれば、”嫉妬”という感情とそこから派生する行動については、それが逼迫感を持てば持つほど、他者との関係の障害になる可能性が高いものです。しかし、”嫉妬”という感情に対して、それを受け入れることのできる”場”が存在するのであれば、”嫉妬”という感情も、そこから派生した行動についても、逆にこの世の中の価値観や人間関係を組み替えていく好機として捉えることが可能になってゆくのではないでしょうか。


そうした”場”が一般的になったとき、”嫉妬”という感情に対するパラダイムシフトが起こるかもしれません。


”嫉妬”という感情は本来人と人とを結びつけるものであると私は考えます。


そして今では”他者へうらやみや妬み”として語られる感情も、その感情がしっかりとケアされるのであれば、いずれは”羨望”という言葉が意味するような、自分自身が主体的に成長していきたいという感情に移行していくのではないでしょうか。

"嫉妬"について(1)

≪はじめに≫


今回は”嫉妬”という感情について書きます。
前から、書いてみたいな・・という風に思っていたテーマです。
最近何かと日常生活の中でも、嫉妬について考えさせられる場面が増えてきたように感じたこともあり、今回書くことにしました。


≪”嫉妬”とは何か?≫

それではまず最初に”嫉妬”というのはそもそも何なのでしょうか?
「goo国語辞典」で”嫉妬”という言葉を検索してみると、

1 自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。
2 自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。悋気 (りんき) 。

と書いてあります。
上記の内容で異論のある方はほとんどいないと思います。

そして、”嫉妬”という言葉の語源について調べてみると、以下の通り書いてありました。

「嫉」の右側の「疾」は、「病(やまい)」+「矢」で「矢のようにきつく速い病」。
そこに「女」へんがつくことで、「女性にありがちな、頭にカッとくるヒステリー状態」を意味するとのこと。


これだけ見ると、”嫉妬”という漢字をつくった人の人格が疑われるようですが、ともかくも語源的には、先ほどのgoo国語辞典の2番目の意味、「自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと」に近い意味で捉えられているように思います。


また、嫉妬を英語で表現した場合に、最も適当だとされているのが「jealous」「=(ジェラシー)」という言葉だといわれています。

「jealous」「=(ジェラシー)」と似た意味を持つ言葉として、よく「envy」という言葉も引用されますが、この2つの言葉を比較することで、よりいっそう「jealous」(=嫉妬)の意味が際立ちます。


「jealous」と「envy」との意味の比較についていろいろなサイトを見てみたところ、大枠のところ、
 自分が持ってないものに対しての羨みは「envy」
 自分の持っているものが奪われてしまう羨みは「jealous」
ということで、説明がされていました。


このことをふまえると、先ほどの”嫉妬”の語源のところでもあったように、「jealous」(=嫉妬)という言葉には、「他者の存在によって、自分の価値が奪われてしまう、もしくは損なわれてしまうことに対する他者への恨みや憎しみ」。そんな意味が込められているように感じます。


これらのことを私の言葉で表現するのであれば、”自分の価値が損なわれてしまうことに対する感情的な防衛反応”ということで、”嫉妬”というものを捉えるのがもっとも適切ではないかと私は考えます。


≪現代社会における”嫉妬”という感情の変質≫

”自分の価値が損なわれてしまうことに対する感情的な防衛反応”というものとして、”嫉妬”というものを捉えたうえで、私が訴えたいのは、現代社会において、”嫉妬”という感情は、”個々の生存がかかった、逼迫感を持ったものとして表出されている”のではないかという懸念です。

”個々の生存がかかった、逼迫感を持ったもの”というと、かなり大げさな表現に聞こえますが、私がこうした表現をする理由は大まかにいって3つあります。

一つ目は、今の若者の生活世界の中では、学校や労働の場においても、各個人の全人格と能力が問われる熾烈な競争原理が働いているということ。

二つ目は、拡大する格差と貧困によって、その熾烈を極めた競争の敗者には、生存すらことすらままならない生活環境に落ち込む可能性が高いということ。

上記の2点については、もう少しわかりやすくいうと、グローバル化する社会において、産業界から多様な個性というニーズが求めれるにしたがって、昔みたいな学力至上主義から、関心・意欲・態度・コミュニケーション能力など、全人格的な能力競争に学校・雇用の現場がシフトしているという現状があるということ。
そして進行する貧困と格差によって、絶対的貧困層が増大し、熾烈を極めた競争の敗者は必然的にその生存することすらままならない生活環境が待ち受けているということにもなります。

そして三つ目に、それらの熾烈な競争原理と進行する格差と貧困という今の社会環境が、個々の自尊心・自己肯定感情の形成を妨げる大きな要因となっていることです。

詰まるところ、競争の敗者に与えられるのは、「絶対的な貧困」と「人格の否定」。

”嫉妬”を感じるということは、自分自身が他者に対して何かしら劣位であることを認めているということであり、要するに競争の敗者であるということを自分自身が認めてしまっているということです。

現代社会の中では、競争の敗者であることを認めることは上記の通り、多大なるリスクが存在します。

こうした事実が、人々の”嫉妬”という感情に逼迫感を持たせているのではないか、私はそう考えます。
タグ:嫉妬

~Responsibility~(2)

先の記事で鈴木氏が述べているように、

Responsibility=「約束をもってお返しをする能力を持つ者に課せられる、ある種の義務の負担。」

確かに、それは世間一般に考えられている、 「責任がある」 という意味が持つ、外部から強制的に背負わされるイメージとはかなり異質なものだと思います。

「それは、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであるように思う。」
と鈴木氏が述べているように、もし”責任”なるものが、「恩恵を受けた人に対する約束」というような他者との関係性の中で生じるものであるならば、今私たちが想定している”責任感”という言葉も大きく意味を問い直す必要があるのではないかと思います。


「あいつは責任感のないやつだ」と巷でよく使われている言葉には、無意識的に”責任感”というものを個人の意識の問題に還元する意図が含まれていると思います。

しかし、”責任”というものが、他者との関係性の中で生じるものであるのならば、”責任感”というものも、同じく関係性の中でとらえなければならないはず。
 ということであれば、”責任感のない人”というのは、「他者による恩恵などを受けてこなかったために、約束をもってお返しする能力を発達させれこれなかった人」また、「本質的に他者に対して応答する能力を育てるための資源を欠いた人」と捉えた方がより正確な表現となるのではないでしょうか。

”責任感のない人”に対して、そうした認識に立つのであれば、責任感のない人に対していくら「責任感を持ちなさい」と責めたところで、それは砂漠で花を咲かせようとするようなもので、本質的な解決にならないことは明らかです。

”責任感”というものは、決してその当事者を責めることで生じるモノではなく、先ほどの花の例を再びあげるのであれば、水をあげることでしか花は育たない、当事者に対して数々の期待や感謝・信頼というような”恩恵”という水を与えることでしか、本当の”責任感”というものは育たないのではないでしょうか。


今の若者、いやすでに若者だけではなくなってきていると思いますが、様々な日常行為において責任感が欠如としているとしかいいようがない人が多くなっているのかもしれません。

それは、ただ単に「無責任な人が増えた」というわけでなく、社会的な資源の枯渇により、他者、ひいては社会に対して応答する能力を育ててこれなかった人が増えている、そういう一種の社会問題として捉える視点が必要なのだと思います。


もし私たち大人が、未来を担う若者に対して、今存在する関係、集団、ひいては社会に対して主体的に担っていく責任を持ってほしい、そう切に願うのであれば、私たちに求められるものは、若者へのバッシングや説教ではなく、若者の心に水をあげるような姿勢そのものではないのでしょうか。

私たちが今一度若者に対する認識を問い直し、日常生活において若者に対して、期待や信頼・感謝という水をあげることでしか、若者が今のこの世の中を主体的に担っていこうという責任感は生じえない。経済的側面をはじめとする社会資源を欠いているこの世の中ではなおさらこのことが求められているのではないでしょうか。


~Responsibility~(1)

君たちに伝えたいこと3
~Responsibility~

鈴木大裕さんブログ「あなたとわかち合いたいこと」より引用
 

 昨日、KAPLAN[1]で生徒にTOEFLを教えていた時、responsibilityという単語に出くわした。

 生徒に、 「この単語の意味知ってる?」 と聞くと、知らないと言う。 「責任」 という意味なのだが、何か良い教え方はないものかと思い、いつものようにこの単語を分解してみることにした。

 Responsibility は単純に大きく分けると、 response と ability に分解することが出来る。 Response は「応答」 、 「反応」 等の意味を持つ。いずれにせよ、漢字の 「応」 という字がその意味に最もふさわしいイメージを持つように思う。そして ability は 「能力」 という意味。

 おや? Responsibility… 応える、能力?それが 「責任」? 予想外の発見に僕は驚くと同時に不思議な説得力を感じていた。その場は responsibility の持つ、 「責任」 という意味、そしてそれを構成する要素を教え、それらの関連性については僕と生徒の次回までの宿題とした。

 家に帰った僕は早速、自分の持つ一番大きな英英辞典を開いた。それによると、 responsibility の元となる respond (応える) という単語はラテン語の respondere という単語に語源を持つ。

Re は 「返す。」
Spondere は 「約束する」 という意味をそれぞれ持つ。

つまり、 respond は元々、 "to promise in return" (約束をもってお返しをする) という意味なのだ。よって、 responsible は 「約束をもってお返しをすることが出来る」 という意味を持ち、その能力を持つ者を描き出す。

そして、論理的には responsibility の持つ 「責任」 とは、 「約束をもってお返しをする、その能力」 ということになるのだが、これがそうではないのだ。面白いことに、それは 「能力」 自体を指すのではなく、その能力を持つ者に 「課せられるもの」 を指すのである。

僕の持つ辞典には responsibility の説明の一つとして次のようなものがある

“a particular burden of obligation upon one who is responsible”
(Random House Webster’s College Dictionary,
1997, NY: Random House, Inc.. p.1107). 

Responsibleの意味を踏まえて訳すと、このようになる。

「約束をもってお返しをする能力を持つ者に課せられる、ある種の義務の負担。」


 能力を持つからこそ義務を背負う。こうして語源を考えると、それは世間一般に考えられている、 「責任がある」 という意味が持つ、外部から強制的に背負わされるイメージとはかなり異質なものであることが分かる。それは本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであるように思う。


 教育を受ける機会を得た者として、親や友人に恵まれた者として、人や大地の温もりに触れた者として、学生として、教育者として、大人として、母親として、父親として、女として、男として、人間として、そして一つの生命として、僕達が持つ 「責任」 とは何なのだろうか。僕達はどんな素晴らしいことを約束し、お返しすることが出来るのだろうか?そこには、しばしば 「責任」 とは遠いところに位置付けられる 「自由」 が顔を覗かせているように思う。

"高江"ルポを読んで

Y.D.A.に所属するyukiさんが、10月に高江でのヘリパッド建設反対の行動に参加したルポを挙げてくれています。
その感想を今回はつづりたいと思います。
※ルポについては下記のURLにて
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=688146864673828&id=379693272185857



このルポでは、高江の土地柄、米軍ヘリパッド建設のたたかいが始まったきっかけ、そして今高江で起きている現状について、非常に簡潔に、詳細に書かれています。

読み手の事を配慮した、非常に丁寧な書き方であることが読み取れるのがとても印象的であったのと、同時に現地の実態をぜひとも伝えたいという確かな”意思”も感じられるものでした。


高江のことを知らない方にはぜひとも読んで欲しい記事です。お時間のある方はぜひとも読んでいただくことをお勧めしたいと思います。


このルポを読んで、感じたこと、もう2つだけ書きたいと思います。

まず1つ目はyukiさんの行動力についてです。
参議院選挙の時に高江の問題についてTwitterで知った翌月に、さっそく高江に行き、そして10月に再度高江入りし、これだけ詳細なレポを書いたという事実。そしてレポにあるように、積極的に現地の方とコミュニケーションをとり、自分に何ができるかを真剣に考えているその姿勢は、私にとって非常に学ばされることの多いものだと感じました。

2つ目に、yukiさんがただただ、高江の不当な弾圧に関して、その不当性を糾弾したり、機動隊に対して怒りをぶつけるという行動をとるのではなく、現地で行われている「ゆるく、しなやかに」なスタイルを体現するかのように、非暴力の闘いが、機動隊や周りの人たちを変えていくことができる可能性について信じ、そして、ヘリパッド工事を止める力の根源を、現地の人たちの連帯する姿に見出していることです。

その深い見識は、様々な社会問題について私たちが取るべき態度に関して非常に大切なことを教えていくれているような気がします。


このルポを書いたyukiさんは12月23日に、甲府市民総合会館にて開催されるドキュメンタリー映画「いのちの森 高江」上映会の合間に、報告をされる予定です。

山梨県内に在住の方はぜひともお越しいただければ幸いです。

「いのちの森 高江」甲府上映会については以下のURL参照
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=702343603254154&id=379693272185857

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