SSブログ

子どもたちから教えてもらったこと(3)-はじめてのだっこ-

☆はじめに

 今回の「子どもたちから教えてもらったこと」の記事ですが、本当は今回の3回目の記事の内容を書きたいと思っていたのが最初のきっかけでした。いざ書き始めた時に、前置きのつもりで書いていた(1)・(2)の部分が想像していた以上に長くなってしまい、最初は書くつもりではなかったことまで触れたものだから記事の内容が全くまとまらず、結果的に大変読みにくい記事となってしまいました。

 前回の記事を読んでくださった方の中に、文章の意図の読み取りにくさを感じた方がいらっしゃったのであれば深くお詫び申し上げたいと思います・・


☆”はじめてのだっこ”を断った父
 
 さて、前回までの記事で何回か姪っ子の存在について触れましたが、私自身姪っ子と初めて顔を会わせることができたのは、昨年の11月のことでした。

 甥っ子の方が産まれた時は、妹が東北に住んでいたこともあり、初めて顔を会わせることができたのは生後半年近くも経ってからのことだったのです。だからこそまだ生後1ヶ月にも満たないMちゃんの顔を見た時には、本当に感無量でした。

 そしてMちゃんとの初対面がすんでからのこと。妹がだっこしながらMちゃんをベッドから連れて来て、父に『お父さん、Mちゃんだっこしてみる?』と問いかけたのです。それに対して父は「いやいや、怖いからいいや」と断わりました。

 一見すると何気ないやりとりだったわけですが、その時私の中で何か言葉にならないような違和感を感じたのです。

 結局、その違和感が何なのかということがよくわからないまま静岡を後にしたわけですが、それが何だったのかと気づくことができたのは、実家に戻ってきてからのことでした。


☆“はじめてのだっこ”を断った父に対する疑念

 私が感じた違和感、それはなぜあの時に父がMちゃんをだっこしなかったのか、ということに対する疑念だったのだと思います。

 通常、自分の家族である赤ちゃんをだっこしたいというのは、極めて自然な欲求だと思います。あの時の父のように、Mちゃんはまだ首もすわってない状態だったのですから、『怖い』という気持ちは確かに理解できます。しかし父は私や妹、または親類の子など、これまでいくらでもそのくらいの赤ちゃんをだっこする機会があったはずです。それにも関わらず、なぜいまさら『怖い』と言ってあの時にMちゃんをだっこしなかったのでしょうか。

 そのことを考えた時に、もっとも可能性の高い理由として考えられるのは、父がこれまで私や妹が生まれた直後も、今回のように『怖い』と言ってだっこしなかったのではないかということです。

 とはいえ、たとえそうだったとしても、私自身物心もついていない時の話をいまさら蒸し返すつもりは毛頭ありません。
 
 しかし今回、父がMちゃんのだっこを断ったことについて、妹自身はどのように感じたのでしょうか。そしてもし、私や妹が生まれた直後も父がだっこをしなかったとすれば、母はいったいどのような感情を抱いたのだろうか。ということについては、私自身思いを馳せないわけにはいきませんでした。

 私があの時に感じた違和感。それは父がだっこを断ったという行為自体に対してだけのものではなかったのでしょう。それと同時に、その父の行為に対して、妹や母がどのような感情を抱いたのかということについても、私自身が無意識的に想いを馳せていたことに由来するものだったのだと思います。


☆”はじめてのだっこ”が意味するもの

 もし自分が仮に母親だったとして、父親にわが子のだっこを断られた時のことを想像してみました。

 お互い同士の恋愛を通じ、結婚、妊娠、そして出産。無事にこの世に生まれ出た赤ちゃんに初めて対面した瞬間。親がわが子に対してする”はじめてのだっこ”は、その言葉に出来ないほどの喜びを初めて夫婦で共有しあう大切な行為です。

 もし父親に、そのような大切な意味を持つ“はじめてのだっこ”を断られたら、きっと母親は深く傷つくことでしょう。

 また、父親のわが子に対する“はじめてのだっこ”は、出産行為だけではなく、その後の授乳などの母親にしかできない行為はあるにせよ、お腹にいた時とは違いって初めて夫婦が対等に子育てに関わることができる出発点としての行為であるとも言えます。

 だからこそ、生まれた直後のわが子を母親が父親に手渡し、“はじめてのだっこ”を求める行為というものは、“これから一緒に子育て頑張ろうね”という母親から父親に対する“問いかけ”を含んだ行為ともいえるのではないでしょうか。夫婦間の子育ての共同は、まさにその瞬間から始まるのだと思います。

 そう考えた時に、もし父親がわが子の“はじめてのだっこ”を断るということは、そうした母親の“問いかけ”を拒否したということに他なりません。

 つまり母親にとっては、父親にわが子の“はじめてのだっこ”を拒否されるということは、わが子が無事に誕生した喜びを分かち合うことを拒否されたということだけに留まらず、その後も『この人(父親)はこれからちゃんと子育てに携わってくれるのであろうか』ということも含めて、深い傷心と、大きな不安を抱えなければならないということに繋がるのです。

 だからこそ、“はじめてのだっこ”というものは、世間一般においてはどこにでもある光景ではありますが、一見何気ない行為の中にもそうした大事な意味が内包されているのだと思います。


☆地域社会における子育て

 ところで、子どもを自ら産んだこともない私が言うのもおこがましい話であるかもしれませんが、そもそもいつの時代も出産・子育てというものは簡単なものではありませんでした。だからこそ古来より人間はその責任を母親一人だけに負わせるのではなく、地域社会全体で支えるしくみを築いてきたのです。

 教育学者の太田堯氏は『教育とは何か』(岩波新書)の中で、下記の通り、出産・子育てというものを地域社会においてどのように支えていたのかについて紹介をしています。少し長くなりますが引用させていただきます。


『あらゆる生きものの生命は受精にはじまります。いろいろな社会的事情はあるものの、子どもは結ばれた男女によって町の望まれたものであるはずです。それはほとんど生物としての基本的欲求に根差しているのです。しかし受精によって成立した生命が、すべてこの世に生れ出るとは限りません。多くの困難な事情と危険が伴っていました。

 子どもをはらんだとき、一般庶民の間では、この子を産むべきか、産まざるべきかの判断が、社会的・経済的理由から、また健康上の理由から相当深刻な問題であったことは間違いありません。そういう困難の中でこの子は産みますよと決心がついたとき、妊娠5ヶ月頃を中心に『帯祝』の行事がかなり一般的に行われました。嫁の実家からも、米、小豆、酒など、帯祝いの日に招く近隣や親戚の客人をふるまうためのものが贈られました。だから帯祝は『この子は産みますよ』という社会的宣言とみてもよく、あわせて母子の無事、健康な育ちをあらかじめ祝福することを意味したと考えることができます。人間の子育ては、受精によって胎内で成長をはじめた生命の時点から、社会的関係の中におかれることになりましょう。


 このように、地域社会において子育てというものは受精し胎内に子どもの命が宿ったその時点から社会的関係のもとに置くことで、決して母親だけに責任を負わせるのではなく、共同の営みという形で子育てに取り組んできました。今風に表現するならば“子育ての社会化”とも言い換えることができると思います。

 それが具体化された形の一つが『帯祝』という行事であり、地域社会における子育てには、他にも数々のこうした儀式的行為が存在します。これらは物理的に子育てに対する親の負担を軽減するという役割だけではなく、精神的にも不安定になりがちな子育て中の親に対する安心感の醸成といった点でも大きな役割を果たしてきました。

 しかし、現代社会においてはこうした地域社会の解体が急激に進行し、それと同時に子育てを取り巻く社会関係についても衰亡することとなってしまいました。その結果、現代において子育ての負担は物理的にも精神的にも母親が一手に担わなければならない状況に陥ってしまっているように感じます。

 昨今の日本全国で続発する子育てに関する悲劇的な事件が発生する一因にも、このような地域社会の解体に端を発する、子育てに対する社会的な支援の衰退が存在するのではないでしょうか。


☆今一度求められる“子育ての社会化”と“はじめてのだっこ”

 このように子育てに対する社会的支援が乏しい現状であるからこそ、私たちは今一度“子育ての社会化”を目指す努力が求められているように思います。こんな現状であるからこそ、まず父親は子育てを母親だけに責任を負わせるのではなく、自ら積極的に子育て行為に参加していくことが求められているように思います。
 
 その姿勢を示す第一歩が、わが子に対する“はじめてのだっこ”なのではないでしょうか。

 こうしたことを考えた時に、やはり父親は母親からからわが子を渡された時の“はじめてのだっこ”は決して断っていいような類のものではないと思います。それは父親だけに求められるものではなくて、“子育ての社会化”が巷で大きく求められている今、親以外の祖父母や知人であったとしても、やはり等しく求められるものなのです。

 と、こんなことを書きながらも私自身、昨年の10月に後輩の子どもの出産祝いに顔を出した時に、後輩から『だっこしてみます?』と問われ、『いや、いいや』と断っていたのです。まったくもって父が父なら子も子です。本当にお恥ずかしい限りです。

 でもまだ9歳の甥っ子は、そんな父や私のように“はじめてのだっこ”を断らず、自らの意志で受け入れていました。赤ちゃんをだっこするにはまだ小さすぎるのではないかとも思える手で、必死にだっこをするそんな甥っ子の姿を見なければ、私自身、自ら犯していた過ちに気付くこともなかったことでしょう。

 いつの時代においても、子どもはともすれば大人以上にいろいろなことを教えてくれる。そんなかけがえのない存在なのだと改めて気付かされました。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。