SSブログ

平井信義さんについての補足

★平井信義さんについての補足

前回の記事で、平井信義さんについて少し触れさせていただきましたが、書かれた内容を読んだときにともすると平井さんの功績について、あまりよくない印象を読者のみなさんに与えてしまうのではないかと後から思い少し補足させていただきたいと思います。

以下に紹介するのは、全国不登校新聞社が、”不登校50年証言プロジェクト”ということで、心理臨床家として不登校問題についても造詣の深い横湯園子さんからのインタビューを掲載した内容です。


----------
それ(情緒障害児には、教科学習をせず、体験学習だけでいいという答申)については、私は断固闘ったんです。国府台病院の情緒障害児学級は、日本で初めての登校拒否児を対象とした院内学級として1965年に開設、1968年から3年間、文部省の研究委託を受けて、「情緒障害児の教育内容・方法の実験研究」をしていたんです。私はその3年目に入って、ちょうど研究結果を出す年でした。私たちが教育実践の報告をして、それをもとに精神科医や小児科医、教育委員会、校長会の方も入って議論して、結論として答申を出すのですが、その内容に、若かった私はナマイキにも異を唱えたんですね。

  「この子たちは病気ではなく、症状がとれれば、ふつうの子である」とあったのはよかったんです。しかし、「情緒の障害だから、教育は音楽・図工・技術・体育だけでいい」とされていることに対しては、私はひとりで猛反対しました。ふつうの生徒たちであれば、その後、自己実現に必要な科目が保証されるべきである、道を狭めてしまってはいけない、と。

 会議終後、校長室に呼ばれて「えらい精神科医や大学の先生たちを前に、なんてこと言うんだ」と校長に叱られ、「次の会議であやまりなさい」と言われました。その場では「わかりました」と言って引き下がったんですが、次の会議では、また言い張ったんです(笑)。そうしたら、平井信義先生(小児科医・児童心理学者/1919―2006)が「それはそうだ」とおっしゃってくださって、すべての科目を保証すべきだという結論になったんです。校長はにらんでましたけど、それ以上はおとがめなしですみました(笑)。
----------


 当時、国府台病院の情緒障害児学級に勤めていた横湯さんは、不登校状態である情緒障害児とみなされている子どもたちに対して、「情緒の障害だから、教科教育は必要はなく、体験学習のみで良い」という答申を出そうという流れに対して、異を唱えました。
 その横湯さんの意見を唯一「その通り」と賛成してくれた人こそ平井信義さんだったのです。

 1960年代といえば、不登校・登校拒否については、医学的な治療対象と一般的に考えられている時代で、そうした時代背景の中で、「症状がとれれば普通の子。だから教科教育も保証されるべき」という立場に立っていた、横湯園子さん、そして平井信義さんは不登校・登校拒否児に対して、先見の明を持っていたことは疑いようがありません。

 今では、”不登校・登校拒否児だから教科教育は必要がない”なんてことを口にすれば、大問題ですが、それが一般的になったということに関しては、こうしたお二人のような研究者の努力があってのことだと思います。

 そういう意味でも平井信義さんの生前の功績は、不登校・登校拒否をはじめとする子育て研究に関して大きな影響を与えてくれたのだということを改めてここで触れておきたいと思います。
 
nice!(0)  コメント(0) 

今、改めて母に伝えたいこと~母の子育てに関する環境にふれて~

★久しぶりの地元の図書館へ

6月に山梨から地元の長野に引越してきたわけですが、先週久しぶりに地元の図書館に足を運びました。私が中学生だった時以来の訪館だったのですが、あまりにも長い時間が経ちすぎていたのか、昔の図書館の記憶がまったくなく、まるで初めて訪れたかのように感じました。

 図書館では、1時間程度ぐるぐると回って大まかにどんな本があるかを確認して、結局この日は、『子どもの生活世界と子ども理解』(かもがわ出版・教育科学研究会)という本1冊だけ借りることにしました。


★“平井信義”さんのお名前と母との思い出

 図書館から家に戻った後に、借りた本の中に掲載されていた広木克行さんの論文「不登校支援における親のこども理解の重要性」を読んでいた時に、文中に“平井信義”さんの名前が引用されているのを見つけることができました。

 平井信義さんは児童心理学者・小児科医で、戦後まもない時期から子育て研究に関して長きにわたり貢献されてきた方です。その著作の中で代表的なものの一つが1984年に企画社から出版された「心の基地はおかあさん」という本で、当時140万部以上のベストセラーになったそうです。

 実はこの平井信義さんの著作は母のお気に入りだったようで、母の部屋の本棚に平井さんの本が何冊も置いてあるのを目にした記憶があります。そんなわけで、広木さんの論文の中で平井信義さんのお名前が出ている個所を読んだ際に、とても懐かしく感じました。


★広木克行さんの平井信義さんに関わる叙述について

 ところで、広木さんの論文の中で平井信義さんがどのような形で登場したかというと、以下の通りです。

「不登校支援の実践は、その初期においては不登校をこどもの異常と捉え、その子を育てた母親に原因を求める見解が支配的でした。1970年~80年代の文部省の登校拒否政策に大きな影響力を与えた専門家として稲村博氏という精神科医がいますが、その稲村氏が執筆した本の中で母親療法の章を執筆した平井信義氏は「養育の中心は母親にありますからその養育態度が登校拒否児に大きな影響を与えていることは言うまでもありません。その母親療法のエッセンスとして“母親に対する提言”をまとめ、不登校の原因、子どもの自主性の発達の遅れに求めたうえで、その子を育てた母親に過保護や過干渉を一切取り除くこと」を要請していることからも、当時の不登校・登校拒否の原因を母親に求めていることは明らかです。」

 このように文中では広木さんが、平井信義さんに対して、不登校・登校拒否に関して「母親原因論」の立場に立っていたことを指摘していました。


★「登校拒否」・「不登校」の理解の変遷について

少し話はそれますが、広木さんが論文の中で「母親原因論」というものに触れていましたが、不登校・登校拒否というものが、歴史的にどのようにその認識を変遷させてきたかについて、ここで簡単に振り返っておきたいと思います。

 大雑把になってしまいますが、私なりに不登校・登校拒否の歴史について、以下通りまとめてみました。

① 戦後直後の時期(1945年~1950年頃)
戦後直後における経済的困窮と、「こどもは学校よりも農業や漁業などの家業を手伝うべき」という家庭観による“長期欠席者”としての認識

② 1950年~1960年代
“学校ぎらい”“学校恐怖症”とも呼ばれる、本人の性格や親の生育環境が原因となる医学的治療対象としての認識

③ 1970年~1980年代
本人の性格や資質、特に(母)親による育て方に責任を帰する“登校拒否”児童としての認識

④ 1990年代~
登校拒否は病気ではなく、本人や家庭環境だけが原因ではなく、学校や社会構造を含めて複合的にとらえるべきという“登校拒否・不登校”としての認識

 このように、不登校・登校拒否はこの半世紀の間に、医学的な治療対象と考えられていたところから、様々な複合的な要因の産物というところまで大きくその見方が変化してきています。

 その中で、平井信義さんがその代表作である「心の基地はおかあさん」を執筆し、母がその著作に大きな影響を受け、自身の子育てに奮闘していたのは、ちょうど不登校・登校拒否などをはじめとする子育ての責任は、母親に帰するものという考え方が社会的に大きく幅を利かせていた時代であったわけです。


★母の生い立ちと子育てにおける環境について

 そんなわけで子育てに関する重圧は、必然的に母の肩に大きくにかかっていたわけですが、その母が子育てを実践するにあたって、家族をはじめとする周囲の支援が十分だったかと言うと、決してそんなことはありませんでした。

 実は、母は実の母を5歳の時に病気で亡くしており、母自身は、後妻として嫁いできた現在の私の祖母に育てられという経験をしています。

 その祖母はと言えば、出産経験がないので、乳幼児を育てた経験はありませんでした。一方私の祖父は昔ながらの保守的で厳格な人で女性蔑視の思想が強く、度々祖母と母に暴言を吐くような人で、母と言い合いになることも度々でした。当然、子育てに関しても何かと母を責めるばかりでの人でした。
 また、私の父は長距離運転手という職業上ほとんど家にいることはなく、婿養子という立場もあり、祖父母に対して口を出すことは全くなく、子育てにも比較的無関心な人でした。

そんな家庭環境だったわけですから、母の子育て環境としては明らかに恵まれているとは言い難い状況でした。
 
 このように母親が子育てをするにあたり、家族の支えが脆弱であったということに加え、当時の子育てに対する責任が全面的に母親の肩にのしかかるという悪条件のもとで、母親は懸命に私たち兄妹を育ててくれたわけです


★今、あらためて母につたえたいこと

 これらをふまえたうえで、母が私たち兄妹を育ててくれた当時のことを振り返ってみると、妹はどう考えているかはわかりませんが、私自身母親の子育てに関して大きな怒りや不満を持ったことはなく、“とても良い母親だった”というのが本当の想いです。
 
 今改めて、昔のことを思い返すと、母の口癖だった「自分のことは自分で決めなさい」という言葉も、先ほど引用した平井信義氏の“母親への提言”にある「過保護・過干渉の撤廃」「こどもの自主性の尊重」という言葉をしっかりと胸に刻んで実践していたのかもしれません。
子育ての責任がすべて母親の責任とされる当時の風潮と家族の支えも脆弱な中で、私たちを尊重し、過保護も過干渉もせず温かく見守るというということを実践するには、並大抵の勇気と覚悟ではなしえなかったことではないでしょうか。


もし、私が当時の母に一言伝えることができるのであれば

「大丈夫、母ちゃんは立派に子育てしてくれているよ」

そう伝えたいな・・と思うのです。


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。