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人にとっての”還る”場所

☆はじめに

昨日はうちの母親の誕生日でした。
63歳の誕生日。
40代でがんを発症してから早15年。今日までよく元気に生きていてくれて良かったなって思う。改めて誕生日おめでとう。

話は変わって、一昨日は私の職場の飲み会がありました。
もう10年働いてる職場。でも、実は来年いっぱいで退職する希望を、この前行った面接で伝えてあるのです。
それ以降、上司には度々「残って欲しい」と飲み会の度に言われています。


☆「親をこっちによべ」という選択肢への違和感


上司が、なぜ自分に残って欲しいと言っている理由については、正直何回話を聞いてもよくわかりません。上司の日頃の発言や態度からは、私自身を必要としてはいないことだけははっきりと伝わってくるのに、実際の発言だけは「残って欲しい」と話される。その真意は私には測りかねます。

面接では、実家では、90歳過ぎの要介護状態の祖父母を、病気がちの母親が一人で面倒を見ていること。(父親は婿ということもあってあまり介護力はないのです。)かつ家事全般も母親が一人で担っている現状を話し、私自身が長男ということも含めて、実家に戻りたい趣旨を上司に伝えました。
しかし上司からは「親はこっちに呼べばよい」との一点張りで、なかなか話が伝わらないな・・という想いだけが募ります。

そうはいっても、上司だってこれまでの人生の中で、似たような葛藤を抱えながら選択を繰り返してきたのだろうし、軽々しく「親を呼べ」と言っているわけではないのであろうとは思います。しかし、「親をこっちに呼べ」という言葉を聞く度に、私は違和感を感じるのです。


☆母親の人生の軌跡と価値

話は変わって、私の母親はどういう人なのかというと、”普通の人”としかいいようがないかもしれません(笑)
母親は結婚してからはずっとパート職員として働いており、一方父親はずっと長距離運転手として今でも働いています。若いころたまたま同じ運送会社で働いていたのが最初の出会いのきっかけだったそうです。

二人の結婚後、すぐ私が生まれ、その3年後に妹が生まれます。
正直、バブル崩壊以後の長距離運転手の業界は一変し、規制緩和も相まって、正直、私の子ども時代において、長距離運転手の待遇は決して良いとはいえないものだったと思います。

私自身、子ども時代にお金に困るという経験はしたことはないけれど、それは両親の懸命の自己犠牲の賜物だったのだと今は思います。父親も母親も趣味にお金を使ったり、どこかに遊びに行ったりした姿をほとんどみたことはないからです。

母親も、もっと自分でやりたいことがあったんじゃないかな・・とたまに思うことがあります。子ども2人ともに大学に進学させてくれたけど、自分自身のやりたいことを我慢しながら、自ら病気を抱えながら、祖父母の面倒と家事全般を一人で担ってきた、それがこれまでの母親の人生だったのではないかと思うのです。

そんな母親にとっての人生は、私たち子どもを育てること、祖父母の面倒を見ること、自らの家を守ること、それらのことこそが母親のこれまで生きてきた人生の軌跡であり、残してきた価値だと思うのです。


☆人生の軌跡や価値は、生きてきた時間・場所・人間の中にこそ宿る

決して料理が好きではない母親が毎日料理を作ってきた台所、2階建ての決して狭くはないのに、ほこりもほとんどないほどよく手入れがされている部屋、そんなに仲は良くないけど、長い間自治会などの活動をしてきたご近所さんとの関係、待遇について組合を通して何度も議論の攻防を積み重ねた職場、嫌味をいう人も多かった同僚、年に1回食事会をする同級生の集まり、今でも付き合いのある私の小学生時代のPTA仲間。

そんな良くも悪くも、母親が生きてきた軌跡や残してきた価値は、そうした実家の人や物や場所にこそ宿っているのだと思います。


昔観た映画に「砂時計」というものがありました。
以下は、その映画の中で主人公の杏が語ったセリフです。

「忘れられない風景がある
その一つ一つの思い出が今の私をつくっている
あの道もあの川もあの駅も
そこであったすべてのことも私の時間を刻んだ砂時計の砂粒たち
その思い出と共に私はいまも生きていく」

そう、人間は誰だって、自分が生まれ育ち、共に生き抜いてきた時間や空間や人間とは無関係に独立して存在しえないのです。

私は、母親が生きてきたその軌跡や価値を決して否定したくはありません。その延長線上を生きていきたいと思うのです。



「あなたにはあなたの人生がある」
そう指摘する人もいるかもしれません。

確かに、今の私が自分の人生をかけてやりたいことに携わっているのであれば、実家に戻らないということも一つの選択肢として考えられるかもしれません。
しかし、今の自分にそうしたものが見いだせるかといえば、それは残念ながら「NO」としかいえないのです。

そして”誰かの人生を肯定して生きていくこと”それこそが唯一、私にとって主体的にやりたいと思えることなのです。

だからこそ、私が私の人生を生きていくためにも、「親をこっちに呼ぶ」という選択肢は出てこないし、「親をこっちによべ」という言葉についても、軽々しく言っているわけではないのかもしれないけれど、それでも親の人生の価値が軽視されているような印象を感じるし、それこそがきっと私にとっての違和感の正体なのだと思います。


☆終わりに-生まれ育ったところに”還る”権利-

最後に、私自身、保守的だと思われるかもしれないけれど、やっぱり人は自分の生まれ育った場所で学び成長し働き、結婚し、年老いて、召されていく。それが人間にとってのべージックなライフスタイルとして保障されるべきなのではないかと思います。


資本主義の社会において、資本による利潤追求のため、そして人間としての基本的な人権意識の向上のために、人間は生まれ育った土地と人間関係から解放され、どこで誰とでも生活を送ることが自由を得ました。

しかし、その自由は現代において様々な弊害を内包するものとなっています。

こうした時代において、私は今一度それぞれの人が自分の生まれ育った土地と人間関係に自らの意思でもう一度還る、いや”還ることができる”べきなんじゃないかと思うのです。

その”還る”選択肢が保障された時に、人はもう一度新たな形で大切な価値を取り戻すことができるのでは・・という風に思うのです。

「生きる意味」

「ずっと・・
ずっと考えてた

死ぬために生まれたぼくが
この世界に存在する意味って何だろうって

何も生み出すことも
与えることもせず・・

たくさんの薬や機械を無駄遣いして
周りの人たちを困らせて・・

自分も悩み苦しんで・・・

その果てにただ消えるだけなら・・

今この瞬間にいなくなった方がいい・・

何度も何度もそう思った・・

何でぼくは生きているんだろうってずっと・・


でも・・
でもね・・

ようやく答えが見つかった気がするよ

意味・・
なんて・・
なくても・・

生きてて・・
いいんだ・・
って・・

だって・・
最後の瞬間がこんなにも・・
満たされているんだから・・

こんなに・・
たくさんの・・
人に囲まれて・・

大好きな人の胸の中で・・
旅を・・
終えられるんだから・・


ボク

がんばって

生きた・・


ここで

生きたよ・・」


【Sword Art Online -Mother's Rozario-より】


上のセリフは、作品の中で登場するユウキという少女がAIDSという病気との闘いの末、天に召される直前の言葉です。


人がこの世の中に存在する意味って何なのだろう・・

原始、人が一人生きるためのギリギリの生産力しかない時代。
病気や障害を持ち、生産活動に携わることのできない人間は確かに生きることを許されなかったのかもしれない。

でも今は違う。

病気や障害自体が本人の生命活動を奪うこと以外には、生産活動に携わることができないといったような外的な要因で生存を脅かされる時代ではなくなりました。

現代は、誰もが生きていていい時代になったのです。


もし「生産活動に携わることのできない人間は価値がない」なんて風潮が現代において振りまかれているのであれば、それは人類がこれまでの歴史の中で築いてきた遺産を否定すること、つまり退化を示すもの以外の何物でもない。


「生きる意味」なるものが何なのか。
それに対する問いは、私一人が定義できるようなものではないのは明らかです。

でも、私自身が今この時代に生きていて感じることは、現代は、そのような「生きる意味」を見出す行為すら、自らの責任に還元されるような風潮が非常に強くなってきているということです。


「生きる意味」

それが何なのかは、私にもまだわからないけれど、でもきっとその”意味”は、自らの心の内だけに見いだされるものだけではなく、他者との関係の内にも見いだされるもののはず。


きっと、「生きる意味」なるものは、私が私の心の中に見出すモノと、あなたや他者が私の心の中に見出すモノが交錯する場所に見出されるものなのだと思います。


だから、もし”あなた”が、”あなた”の心の内に「生きる意味」なるものを見出せないのであるならば・・

”わたし”や他者が”あなた”の中に見出しているものを伝えること。
そのことに大きな”意味”があるのだと思うのです。












PDCAマネジメントについて

1、はじめに ~巷で注目を集めているPDCAマネジメント~

 最近・・でもないかもしれないけど、近年「PDCA」というタイトルの本が書店で並んでいる光景を目にする機会が増えてきたように思います。書店にいっても、何かの研修に行っても、ニュースを見ていても「PDCA」という言葉を耳にする機会が多いように思います。

今回は、この「PDCA」とはいったい何なのか、そして「PDCA」なるものが本当に適切な意味で導入されているのか。もしそうでないのであれば、どのような危険性を内包しているのかについて書いてみたいと思います。

 
2、「PDCAマネジメント」とは?

 そもそも「PDCA」とはいったい何なのでしょうか?

※ウィキペディアより引用

「PDCAサイクルという名称は、サイクルを構成する次の4段階の頭文字をつなげたものである。

1.Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。

2.Do(実行):計画に沿って業務を行う。

3.Check(評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを評価する。

4.Act(改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて改善をする。

この4段階を順次行って1周したら、最後のActを次のPDCAサイクルにつなげ、螺旋を描くように1周ごとに各段階のレベルを向上(スパイラルアップ、spiral up)させて、継続的に業務を改善する。
事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務を円滑に進める手法の一つ。」


もともとは製造業における品質管理などが目的で、第二次世界大戦後にエドワードデミングによって提唱された手法ですが、現在ではあらゆる産業で導入されており、国や経団連としてもその導入を様々な分野で推奨しています。


3、PDCAマネジメントの誤った導入方法への懸念

 私自身、PDCAマネジメントの存在自体は否定する立場ではありません。
しかし、PDCAマネジメント自体なるものを正しく理解しないで、形式的に導入しているところが多くなってきているんじゃないかという懸念を私自身は抱いています。


「目に見える形での目標管理と成果主義に基づくPDCAマネジメント、すなわち計画-実行-評価-改善という事業活動のサイクルが私達の生活世界に侵入してくればくるほど、失敗はさらに嫌悪されるようになります。PDCAマネジメントでは、失敗は、設定した目標の未達成です。

その総括には自己責任のロジックが求められます。組織やシステムの改善を振り返ることなく、いかに自分が個人的に悪かったのかを反省することばかりが過剰に求められ続けると、自己嫌悪感が増し、結果として組織やシステム全体としての課題遂行能力まで低下するという悪循環が生まれる場合もあります。」

※『いのちのケアと育み 臨床教育学のまなざし』 庄井良信 かもがわ書店 2014年10月

上記の庄井氏の指摘にもあるように、PDCAマネジメントに”自己責任”の論理が結びつくならば、継続的な改善活動(スパイラルアップ)は、逆向きのスパイラルダウンともいえる悪循環が始まっていくのではないでしょうか。

4、デミングの14ポイント~PDCAサイクルの本当の意図~

そもそもPDCAマネジメントの提唱者であるW.Eデミングは、一体どのような目的と理念をもってPDCAマネジメントを唱えたのでしょうか。

国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 25(1)『Dr.W.E.デミングの経営管理-デミングの14ポイントという経営原則-』において、デミングが考えていた経営管理についての14原則が下記のとおり紹介されています。


1.競争力を保つため、製品やサービスの向上を常に心がける環境を作る。最高経営者がその責任者を決める。

2.新しい哲学を採用する。我々は新たな経済時代にいる。遅延、間違い、材料の欠陥、作業の欠陥などの一般常識となっている水準には満足できない。

3.全品検査への依存を止める。品質は統計的手法で向上させる(完成後に欠陥を見つけるのではなく、欠陥を防止せよ)。

4.価格だけに基づいて業者を選定することを止める。価格と品質によって選定する。統計的手法に基づく品質保証のできない業者は排除していく。

5.問題を見逃さない。全体(設計、受け入れ材料、製造、保守、改良、トレーニング、監視、再教育)を継続的に向上させるのがマネジメントの役割である。

6.OJTの手法を導入する。

7.職場のリーダーは単に数値ではなく品質で評価せよ。それによって自動的に生産性も向上する。マネジメントは、職場のリーダーから様々な障害(固有の欠陥、保守不足の機械、貧弱なツール、あいまいな作業定義など)について報告を受けたら、迅速に対応できるよう準備しておかなければならない。

8.社員全員が会社のために効果的に作業できるよう、不安を取り除く。

9.部門間の障壁を取り除く。研究、設計、販売、製造の各部門の人々は様々な問題に一丸となって対応しなければならない。

10.数値目標を排除する。新たな手法も提供せずに生産性の向上だけをノルマとしない。

11.数値割り当てを規定する作業標準を排除する。

12.時間給作業員から技量のプライドを奪わない。とりわけ年次・長所によって評価することや目標による管理は廃止する。

13.強健な教育プログラムを実施する。

14.最高経営陣の中で、上記13ポイントを徹底させる構造を構築する。


というように、デミングが想定している経営管理というものは、自己責任のロジックとは無縁のものであったということがよくわかります。

「OJT」の導入、「強健な教育プログラムの実施」というように社員教育の重要性への指摘、「社員全員が会社のために効果的に作業できるよう、不安を取り除く」努力の必要性、「数値目標の排除」、「生産性の向上だけをノルマとしない」、「時間給作業員から技量のプライドを奪わない」、「年次・長所によっての評価」、「目標による管理の廃止」、そして最後にこれらの13ポイントを徹底するための”構造を構築する責任”を最高経営陣の責任としていることです。

本来PDCAマネジメントは、上記の14ポイントの理念に伴い導入されるべきもののはずです。


5、PDCAマネジメントの正しい実践のために

現在の日本の企業の中で、PDCAマネジメントを唱えながらも、一方で成果主義や数値目標のノルマ管理が導入されている現状では、PDCAは社員を自己責任の論理で常時の上昇志向のパフォーマンスを強要するための論理にしかなりえません。
その将来にみえるものは、生産性・モチベーションの低下と、社員の疲弊だけではないでしょうか。

PDCAマネジメントが、自己責任のロジックではなく、デミングの提唱した理念に基づき認識され、実践が広がれば良いな・・と思います。

”陽光桜”と”ハナミズキ”

☆映画『陽光桜-YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』を観て


先日、ある映画を観る機会がありました。

映画のタイトルは、『陽光桜-YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』という映画で、愛媛県川内町(現在の東温市)で生まれ2001年に92歳で亡くなった高岡正明さんという方の生涯をモデルに描かれたヒューマン・ドラマ映画です。


戦時中、軍国教育を行っていた青年学校で教師だった高岡正明さんは、終戦直後から「わしが教え子たちを戦地に送り込んでしまった」との自責の念に苦しみ続けていました。

「戦争という、二度とこのような悲惨なことを繰り返してはならない。戦死した教え子たちの鎮魂と、世界恒久平和への願いを託して新しい桜を自分の手で作ろう」と、生涯を賭けた桜の新品種開発を高岡さんは誓います。


そして、高岡さんにとって、その桜は「新しい桜」でなければいけませんでした。

教え子の中には、「厳寒のシベリアで散った子たちもいる。亜熱帯のインドシナ半島で亡くなった子もおる。教え子たちの鎮魂と世界各国への平和のメッセージを託すには、これまでの桜ではいかん。どんな気候でも花を咲かせる、病気にも強い樹勢が良い品種でなければいかんけん」 その挑戦は苦難の連続でした。植物遺伝学上、桜は人工受粉で新たな品種をつくることは「不可能」だと言われていたからです。


しかし、高岡さんは自らの誓いを胸に秘め不屈の精神で試行錯誤を繰り返し、30年後、ついに桜の新品種登録第一号となる「陽光」を生み出します。

そして、「陽光桜」という新種の開発に成功した後も、その桜を営利目的で販売することはなく、「平和」を祈願し、「陽光桜」の苗を無償で世界中に送付する。

というストーリーです。



自ら教師として教え子を戦地に送り込んでしまったことに対して自責の念を心の内に秘め、その鎮魂と世界平和への願いを桜に託し、30年もの長い間、不屈に新種の桜開発に自らの人生を捧げたその姿には、心打たれるものがありました。



☆100年前にも存在した、日米間での桜の贈呈


実は、日本と他の国との間での桜の贈りあうということは、今から100年前にも存在したのです。

1912年。当時東京市長だった尾崎行雄氏が、当時のアメリカ大統領夫人の希望に応えて、親善交流の目的でソメイヨシノをアメリカに贈呈しました。

後の1915年。アメリカからその返礼としてハナミズキを日本に贈呈(※ハナミズキの花言葉は”返礼”)するというエピソードがあったのです。


それから100年後の2012年には、桜の贈呈から100周年を記念した行事も日米間で開催されました。

時の政権の思惑により、軍事的な交流の内容も幅広く含む内容となってしまっていたのは残念ではありますが、それでも桜の贈呈がきっかけとなり、日米間の様々な交流行事の開催や、この前年に起こった東日本大震災の復興を祈願しての交流なども幅広く行われ、いまなお日米間での親善交流の礎となっているそうです。



☆高岡さんの死と9.11テロ

恒久平和を願い、「陽光桜」を開発した高岡さんは、残念ながら2011年9月10日に永眠されました。

そして、皮肉だったのは、この高岡さんが永眠された翌日に、あの9.11テロが起こってしまったことです。

9.11テロをきっかけにこの後、アメリカは対テロ戦争ということでアフガニスタン、そしたイラクとの泥沼の戦争を行っていくこととなります。


恒久平和を願う高岡さんの志は、本人の死と共にこの世の中から途絶えてしまったのか?
そう思わざるをえないくらい9.11テロは衝撃的な事件でした。



☆9.11をきっかけに生まれた曲『ハナミズキ』


話は変わって、みなさんは『ハナミズキ』という曲をご存知でしょうか。2004年にアーティストの一青窈さんがリリースし、今なおカラオケや結婚式などで長く重宝されている曲です。


実はこの曲は、9.11同時多発テロ事件をきっかけに描かれた曲なのです。


「イラクでさ、三人拘束されたじゃない? みんなも例えばそう、家族だったり、好きな人だったり、そうなったら何が何でも帰ってきてほしいじゃない? こういう状況になって、私たちははじめて『ああどうしよう!何かしなきゃって』署名運動だったり、チェインメールだったり・・・」 「今から3年前。9月11日。NY。みんなちょっと忘れそうになってるでしょ? あの時私の友達がNYにいました。 そのときわたしはやっと、戦争のことすごく身近に感じられました みんなはきっと教科書で、フランス革命とかなんかの合戦とかいろいろ学んできたと思うけど、全部他人事じゃない?あのことを勉強して今私たちは何ができるか思ったら、何もできないんだよね。だって、私も痛まってないし、私の好きな人も痛まってないし。 でもそれってすごく当たり前なことなの。人間ってすごく勝手ないきものだから、私みたいに誰か友達とかまきこまれないと自分のことを考えません。 自分と自分の好きな人の幸せを願うのことは、当たり前なこと。 せっかくここにみんな来て、何かやってほしいと思うのです。 だから好きな人とね、その好きな人の、一歩先、そこの幸せを願ってください。 そこから気持ちが連鎖して優しい世の中になると思います。 まずは私から。 あなたとあなたの好きな人が百年続きますように。」

DVD:《一青窈 LIVE TOUR 2004〜てとしゃん〜》より文字おこし



「たとえば私たちが生きていて残せるものは何かと考えたときに、想い、があると思います。 もちろん想いは目に見えなくて、不確かなモノだから時々不安になるんだけど、やっぱり自分のことでもでもいいですし、たとえばもっと次の新しい人間に同じような景色を残せてあげたらいいなと思うのです。 この前のツアーでは、ハナミズキの苗木をツアーに来てくれたみなさんにプレゼントしましたが、今回はくちなしの木をここに来てくれたみなさん全員に、ぜひ受け取ってほしいのでもらってください。 あの・・嬉しい? 本当は「ハナミズキ」を作ったとき、昔東京の市長で尾崎行雄さんという方がいて、その人が日米国交のために桜をアメリカに贈ったんですよ。 その返礼でもらったのがハナミズキで、そういう、文字通りハナミズキの花言葉は「返礼」なんですけれども、実際に見えるもので想いを交換しあうってすごい素敵だなって思いました。 私とあなたの中にも、何か残せるものがあったらいいなって思って、想いを目に見える形にして、くちなしとかハナミズキとか、これから生まれるんであろう木が埋まっていって、素敵な森になったらいいじゃないですか。 本当はその想いの交換みたいなものに気づいたのは、9.11のテロの起こった日に「ハナミズキ」という曲は書いたんですけど、どうかあんな悲しいことが起こらないように、想いの優しい気持ちの連鎖をここからはじめたいと思うので、私から皆さんに願わせてください。 あなたとあなたの好きな人が百年続きますように。」

DVD:《一青窈 Yo&U Tour '06》より文字おこし


一青さんの、「ハナミズキ」という曲に込められた想いというものは、上記の2つのツアーで本人より語られた言葉に触れればとってもよくわかるのではないかと思います。


☆時空を超えて引き継がれる想い


でも、なんか不思議じゃないですか?

陽光桜を開発した高岡さんが亡くなられた次の日に、9.11テロのような事件が起こってしまったわけですが、それと時を同じくして「ハナミズキ」という曲がこの世に生まれました。

その「ハナミズキ」を書いたアーティストは、100年前の日米の桜の贈り合いのことに思いを馳せ、そして高岡さんのように、平和を願い桜の苗を他者にプレゼントしていたのです。

一青さんが、高岡さんの存在と功績を知っていたかどうかわかりません。

しかし、高岡さんの志は決して途絶えてはいなかったのだと思います。

想いはきっとどこかでつながっているし、受け継がれていく。そういうものなんだなって強く感じさせられました。


最後に、私が一番びっくりしたのは、高岡さんと一青さんの間には、平和を願い、桜の苗木を他者に贈る、ということ以外にも共通点が存在していたことでした。

実は、高岡さんが開発した「陽光桜」という桜は、” 天城吉野”と”寒緋桜”という2つの桜の交配によって生まれた品種なのですが、”天城吉野”というのはその名からわかるように、日本の桜です。そして、「寒緋桜」というのは、別名「台湾桜」と呼ばれており、中国~台湾にかけて広く分布する桜なのです。

日本と台湾のそれぞれの桜の交配によって生まれた桜。

そして、一青さん自身も、日本人の母と台湾人の父から生まれた存在です。


これは偶然? それとも必然なのでしょうか?

いつかその真実が明らかになる日を夢見て・・

自己形成と他者承認②

6年前に、書きかけてずっと放置していた岩川直樹さんの論文のまとめの続きですが、久しぶりに続きを書きたいと思います。



2.自己形成と他者や共同体からの承認


1)自己形成と重要な他者からの承認


2-1)で、岩川氏は以下のような指摘をしています。


人生のあらゆる場面において、葛藤や矛盾を生きる中で自己形成しようとする者には、その都度他者からの承認が必要である。自己形成するもの葛藤や変容を関与的に捉える重要な他者からの承認は<私>にとって重要な足場になるからである。


アイデンティティの形成には、私が変容しながら私である「自立の感覚」という主観的側面と重要な他者によってその意味を承認される「相互依存の感覚」という社会的側面が必要であるというのである。


自己形成の渦中にある本人は、自己自身の変容や葛藤の意味をかならずしも自覚していない。そういう場合、自己の変容の結果を承認されるだけではなく、変容以前の葛藤や試行がもつ未然の可能性を承認されることが意味を持つ。


誰かが自身の変容についておぼろげながら自覚していたとしても、重要な他者からの承認がなされない場合、あるいは、承認があっても自己の変容の感覚と食い違う場合は、アイデンティティはリアルなものにならない。ときには、そのときの他者からの承認不全によって、自己の基層に深刻な傷つきを抱える場合もある。


自己形成と他者からのその意味の承認の両者が重なることによって、はじめて自立の足場が形づくられるのである。


上記の岩川氏の指摘を私なりにまとめると、主に3つのポイントがあると思います。


(1)自己形成するものの葛藤や変容を関与的に捉える他者の必要性。

(2)自己の変容を自覚していないものに対する、変容以前の葛藤や試行が他者に承認されることの意味の重要性

(3)自己の変容の感覚が、当事者と他者からの承認したものが重なることの重要性

の3点です。


自己形成にあたり、重要な他者の存在とその承認こそがとても大事ということなのですが、そう考えると、私は、現代社会においてはこの「重要な他者」、自分の葛藤や変容を関与的に捉えてくれる他者の存在を獲得し、相互依存の関係を築くことについて特別な困難さが存在するのではないかということを感じました。


私がそう感じたのは、理由の一つ目に、現代社会においてはいわゆる「重要な他者」、具体的には家族や友人、教師や職場の同僚、地域の仲間だったりが想定されると思いますが、社会自体に効率が最優先される思想が推し進められ、誰もが余裕がなくなっている今、家族・学校・職場・地域のいずれにおいても、人間同士の相互関係の構築自体が物理的にも難しくなってきているのではないかということがあります。


そして2つ目に、自己責任論の思想と価値観がこの社会の隅々まで押し寄せている中で、自分も他者も、相互依存の関係を構築すること自体が”甘え”として忌諱されることで、精神的にも相互関係を構築することを自主的に放棄してしまいがちな風潮が存在するからです。



本来、アイデンティティや自己形成に必要な重要な他者の存在と相互関係の形成が、物理的にも精神的にも構築することが困難となっている。

そのために、今の若者を中心に皆が様々な形で承認不全のために心に傷つきを抱え、かつ人間関係においても様々な問題を抱えてしまう状況に陥っている。

現代日本における新自由主義政策の一環としての効率最優先の市場原理や自己責任論の思想の浸透は、人間形成の観点からも非常に大きな障害をもたらしているということが、再認識させられる指摘だと思いました。

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