『ありがとう』と『ごめんね』~once again~
【2019年あけましておめでとうございます!】
2019年になり2週間が経とうとしています。
年初早々から、世界でも日本でも物騒な出来事が相次いでいます。
アメリカでは、国境での壁建設をめぐる予算案をめぐり政府機能が停止。日本に関しては、韓国籍の駆逐艦による航空自衛隊機へのレーダー照射問題をめぐって、急速に日韓関係が悪化するなど話題に事欠かない日々が続いております。
そんな社会情勢の中で、私事となりますが、私自身4日前から体中に蕁麻疹が発生し、2-3日全く動けない状態となっていました・・(-_-;)
・・と、年明け早々波乱万丈の毎日ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
【母の死から1年経って・・】
ところで、今月の27日(日)に、私の母の1周忌の法要をとり行うこととなりました。実際に母が亡くなったのは一昨年の11月29日だったのですが、私の妹の出産の都合上、法要自体は年明けということに決めてありました。
母が亡くなってからすでに1年が経過しているわけですが、正直その悲しみや後悔の念は、ほとんど変わらないように私自身感じています。正確に言えば、母が亡くなった直後の悲しみや後悔といった点では、この1年のあいだに少しずつ薄まりつつあるのですが、それとは別に、1年前には全く感じていなかった別種の悲しみや後悔の念が新たに私の心の中に次々と生まれ、その総体としての大きさは変わらない、といったところでしょうか。
【母の背負っていたモノ、気づいていなかった苦労】
この1年のあいだに私の中で気づかされた新たな悲しみや後悔、それは一体どのようなものであったのか。一言でいうなら、それまで私が気づいていなかった、母の背負っていた苦労などについての認識でした。
母が亡くなった後、現在実家には父親一人となってしまったために、母が生前やっていた家のことはすべて私がやらなければならないこととなってしまったわけですが、実際に自分が担ってみると、その大変さは想像以上でした。
私がそれまで住んでいた山梨を離れ、昨年5月に実家に戻り、家のことをやり始めました。炊事や掃除・洗濯などの家事をはじめ家計の管理、施設に預けている祖母への対応、ご近所関係や親戚付き合い、例を挙げればきりがないですが、そのいずれもが苦労を伴うものでした。
実際に自分が母の立場に立たされることで、私自身がこれまで実家を離れて自身の生活だけ考えていられたこと、実家に帰省した時に何不自由なく生活ができていたこと、そのすべては私の目に映らないところで母親が身を粉にして懸命に働いていてくれたことで成り立っていたものなのだと、この1年間で心から痛感させられました。
そんな母に対して今、私ができることと言えば、毎日仏壇に手をあわせることぐらいです。しかし、日々募る感謝の気持ちは、母が亡き今、もうどうやっても伝えることはできません。
【感謝の気持ちは、何かあってからじゃ間に合わない】
そう、1年半前の夏、母に膵臓癌末期の診断が下されたあの瞬間に、私が母に対して感謝の気持ちを伝える機会というものは永遠に失われてしまったのだと思います。
このように書くと、読んでいただいている皆さんにとっては、「どうして?病気になってしまったからとはいえ、その時点で亡くなってしまっていたわけではないのだから伝える機会はいくらでもあるはずじゃないか?」と思われるかもしれません。しかし、やはり膵臓癌末期の診断とともに、母の余命がある程度宣告されてしまった時点で、感謝の気持ちを伝える機会は永遠に失われてしまったと私は考えます。いや、“伝えることができなくなってしまった”のです。
もし皆さんが重篤な病気に罹り、余命宣告を受けてしまったと想像してください。そんな時に家族から、「今までありがとう」と言われたらどう思うでしょうか。当然、嬉しく思う気持ちもあるでしょうが、それ以上に「ああ、私はもう駄目なんだな・・」と思ってしまうのではないでしょうか。
加えて私の母の場合は、膵臓癌が発覚する以前にも、数度にわたり膀胱癌の闘病生活を乗り越えてきたという経験があり、だからこそ母は膵臓癌が告知された時も「癌=死じゃない。今回もあきらめないからね」と周囲に対して気丈に癌とたたかう姿勢を見せていました。
こうした母の気概が感謝の気持ちを伝えようとする私の口を、余計に重く閉ざしてしまうことになりました。なぜなら、癌に対して気丈にたたかう姿勢を見せている母に対して、感謝の気持ちを伝えるということは、母に「もう頑張ったって無理なんだよ」と間接的に伝えることになり、本人の気持ちを折ってしまうことにも繋がりかねないからです。
このように、癌が告知され余命宣告がされてしまった以上、感謝の気持ちを本人に伝えるという行為は、いわゆる“最終宣告”に等しいものとなってしまうわけです。これから辛い闘病生活を送らなければならない当事者にとって、本人の気力はなにより大事なものです。感謝の気持ちを伝える行為が、同時に最終宣告を示すものとなってしまった以上、本人の気力を折りかねないその行為は永遠に封印されてしまったのです。
そう、感謝の気持ちを伝えるということは、何かあってからでは間に合わないのです。
結局、私が母に対して「今までありがとう」と感謝の気持ちを伝えることができたのは、痛みがひどくなり、モルヒネ投与を実施することになった前日のことでした。
ご存知の方も多いでしょうが、モルヒネは人によっては投与後まもなく思考停止状態に陥ってしまう方も存在します。モルヒネ投与が開始されれば、母と会話をすることは不可能になってしまうかもしれない。もうここで言わなければ後はない。そんな客観的状況になってはじめて私は母に感謝の気持ちを伝えることができました。
しかし、その時には母は身体の痛みもありましたし、私の言葉を聞き、心の中で「ああ、いよいよなんだな・・」と思ったに違いありません。そんな状況で私の感謝の気持ちはどれだけ母に伝わったのでしょうか・・。いや、ほとんど伝わらなかったのだと思います。そういう意味でも、何かあってからでは感謝の気持ちというものはやはり伝えることはできないのです。
【同じく母を癌でなくした経験を持つ一青窈さん】
そんなことを考えながら日々を生活していたわけですが、先日、デパートの売り場で、アーティストの“一青窈”さんの名前を久しぶりにお店で見かけました。実は私は以前から一青窈さんのファンで、このブログでも何度か一青さんに関連した記事を書いたことがあるにです。
一青さんも実は母親を癌で早いうちに亡くしており、そのことが一青さんのライフワークというか音楽表現活動のベースになっているようです。一青さんの公式HPの“message”では以下の通り一青さんの気持ちが綴られています。
Message
私の歌のテーマは〈生と死〉に向き合ってます。
生きている間にどれほどの事ができるか
わからない
けれども、終わってしまうからこそ 頑張れる
だから〈今〉が大事なんだと思う。
父が他界した時は
私は余りにも幼すぎて
〈死〉の意味がよくわかりませんでした。
伝えたいことは後からあとからあふれて
その想いを手紙にしたためては
枕の下にいれて眠りました。
その後、母も癌で入院し
余命いくばくもない時期に
コンサートに行きたいと言いました。
帰ってきたらそれは!それは!飛びきりの笑顔で
嘘みたいに元気になっていました。
そのとき、私は
音楽にはmiracleなpowerがあると感じたのです。
大切な人が生きているうちに
ありがとう
と
ごめんね
は、出し惜しみしちゃダメだと
そう思って今に至ります。
失ってから気づくことだらけだけれども
私にはまだまだやりたいこと
もっとできることが きっと、あるんだと思う
病院の敷地内に音楽hallがあって
外出許可の出ない患者さんも
生のライブを聴くことができたら
あの日の母はもっと喜んだかもしれない。
そんな風に誰かにとっての大好きな人が
元気になる歌が唄えたらいいなと思って
あなたの人生の道の途中に
私の言葉や歌が在ったならば
それはすごく幸せです。
あなたにありがとうを言いたくて
私はうたを歌う
一青 窈
とても素晴らしいメッセージですよね。早くにお母さんを癌で亡くした体験がルーツとなり、「ありがとうを言いたくて 私はうたを歌う」それが一青さんのライフワークとなっていることがよくわかります。
【8年前の“誓い”とそれを守れなかったことに対する後悔】
私は一青窈さんのこのmessageに関連して、私は一度このブログで記事を過去に書いたことがありました。およそ8年前のことです。(当時のブログの記事は以下のURL参照)
https://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2010-04-22-1
この記事を私が書いたときには、まさか自分の母親を一青さんと同じように亡くすことになるとは思ってもいませんでした。そして、そういうことがもし現実になってしまった時のためにも、一青さんのmessageにもあるように、“『ありがとう』と『ごめんね』は出し惜しみしちゃだめだよ”と私自身に向けても書いたつもりであったのにも関わらず、7年後の一昨年、母が膵臓癌の告知を受けてしまったことで、『ありがとう』と『ごめんね』を出し惜しみしたことを痛烈に後悔することとなりました。
本当に皮肉なことだし、やりきれない思いです。
だからこそ、こうした想いを二度と私自身繰り返さないために、そしてこの記事を読んでくれている皆さんにも味わってほしくないからこそ、もう一度繰り返し、この言葉をここで紡ぎたいと思います。
『ありがとう』
と
『ごめんね』
は、出し惜しみしちゃだめだよ
2019年になり2週間が経とうとしています。
年初早々から、世界でも日本でも物騒な出来事が相次いでいます。
アメリカでは、国境での壁建設をめぐる予算案をめぐり政府機能が停止。日本に関しては、韓国籍の駆逐艦による航空自衛隊機へのレーダー照射問題をめぐって、急速に日韓関係が悪化するなど話題に事欠かない日々が続いております。
そんな社会情勢の中で、私事となりますが、私自身4日前から体中に蕁麻疹が発生し、2-3日全く動けない状態となっていました・・(-_-;)
・・と、年明け早々波乱万丈の毎日ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
【母の死から1年経って・・】
ところで、今月の27日(日)に、私の母の1周忌の法要をとり行うこととなりました。実際に母が亡くなったのは一昨年の11月29日だったのですが、私の妹の出産の都合上、法要自体は年明けということに決めてありました。
母が亡くなってからすでに1年が経過しているわけですが、正直その悲しみや後悔の念は、ほとんど変わらないように私自身感じています。正確に言えば、母が亡くなった直後の悲しみや後悔といった点では、この1年のあいだに少しずつ薄まりつつあるのですが、それとは別に、1年前には全く感じていなかった別種の悲しみや後悔の念が新たに私の心の中に次々と生まれ、その総体としての大きさは変わらない、といったところでしょうか。
【母の背負っていたモノ、気づいていなかった苦労】
この1年のあいだに私の中で気づかされた新たな悲しみや後悔、それは一体どのようなものであったのか。一言でいうなら、それまで私が気づいていなかった、母の背負っていた苦労などについての認識でした。
母が亡くなった後、現在実家には父親一人となってしまったために、母が生前やっていた家のことはすべて私がやらなければならないこととなってしまったわけですが、実際に自分が担ってみると、その大変さは想像以上でした。
私がそれまで住んでいた山梨を離れ、昨年5月に実家に戻り、家のことをやり始めました。炊事や掃除・洗濯などの家事をはじめ家計の管理、施設に預けている祖母への対応、ご近所関係や親戚付き合い、例を挙げればきりがないですが、そのいずれもが苦労を伴うものでした。
実際に自分が母の立場に立たされることで、私自身がこれまで実家を離れて自身の生活だけ考えていられたこと、実家に帰省した時に何不自由なく生活ができていたこと、そのすべては私の目に映らないところで母親が身を粉にして懸命に働いていてくれたことで成り立っていたものなのだと、この1年間で心から痛感させられました。
そんな母に対して今、私ができることと言えば、毎日仏壇に手をあわせることぐらいです。しかし、日々募る感謝の気持ちは、母が亡き今、もうどうやっても伝えることはできません。
【感謝の気持ちは、何かあってからじゃ間に合わない】
そう、1年半前の夏、母に膵臓癌末期の診断が下されたあの瞬間に、私が母に対して感謝の気持ちを伝える機会というものは永遠に失われてしまったのだと思います。
このように書くと、読んでいただいている皆さんにとっては、「どうして?病気になってしまったからとはいえ、その時点で亡くなってしまっていたわけではないのだから伝える機会はいくらでもあるはずじゃないか?」と思われるかもしれません。しかし、やはり膵臓癌末期の診断とともに、母の余命がある程度宣告されてしまった時点で、感謝の気持ちを伝える機会は永遠に失われてしまったと私は考えます。いや、“伝えることができなくなってしまった”のです。
もし皆さんが重篤な病気に罹り、余命宣告を受けてしまったと想像してください。そんな時に家族から、「今までありがとう」と言われたらどう思うでしょうか。当然、嬉しく思う気持ちもあるでしょうが、それ以上に「ああ、私はもう駄目なんだな・・」と思ってしまうのではないでしょうか。
加えて私の母の場合は、膵臓癌が発覚する以前にも、数度にわたり膀胱癌の闘病生活を乗り越えてきたという経験があり、だからこそ母は膵臓癌が告知された時も「癌=死じゃない。今回もあきらめないからね」と周囲に対して気丈に癌とたたかう姿勢を見せていました。
こうした母の気概が感謝の気持ちを伝えようとする私の口を、余計に重く閉ざしてしまうことになりました。なぜなら、癌に対して気丈にたたかう姿勢を見せている母に対して、感謝の気持ちを伝えるということは、母に「もう頑張ったって無理なんだよ」と間接的に伝えることになり、本人の気持ちを折ってしまうことにも繋がりかねないからです。
このように、癌が告知され余命宣告がされてしまった以上、感謝の気持ちを本人に伝えるという行為は、いわゆる“最終宣告”に等しいものとなってしまうわけです。これから辛い闘病生活を送らなければならない当事者にとって、本人の気力はなにより大事なものです。感謝の気持ちを伝える行為が、同時に最終宣告を示すものとなってしまった以上、本人の気力を折りかねないその行為は永遠に封印されてしまったのです。
そう、感謝の気持ちを伝えるということは、何かあってからでは間に合わないのです。
結局、私が母に対して「今までありがとう」と感謝の気持ちを伝えることができたのは、痛みがひどくなり、モルヒネ投与を実施することになった前日のことでした。
ご存知の方も多いでしょうが、モルヒネは人によっては投与後まもなく思考停止状態に陥ってしまう方も存在します。モルヒネ投与が開始されれば、母と会話をすることは不可能になってしまうかもしれない。もうここで言わなければ後はない。そんな客観的状況になってはじめて私は母に感謝の気持ちを伝えることができました。
しかし、その時には母は身体の痛みもありましたし、私の言葉を聞き、心の中で「ああ、いよいよなんだな・・」と思ったに違いありません。そんな状況で私の感謝の気持ちはどれだけ母に伝わったのでしょうか・・。いや、ほとんど伝わらなかったのだと思います。そういう意味でも、何かあってからでは感謝の気持ちというものはやはり伝えることはできないのです。
【同じく母を癌でなくした経験を持つ一青窈さん】
そんなことを考えながら日々を生活していたわけですが、先日、デパートの売り場で、アーティストの“一青窈”さんの名前を久しぶりにお店で見かけました。実は私は以前から一青窈さんのファンで、このブログでも何度か一青さんに関連した記事を書いたことがあるにです。
一青さんも実は母親を癌で早いうちに亡くしており、そのことが一青さんのライフワークというか音楽表現活動のベースになっているようです。一青さんの公式HPの“message”では以下の通り一青さんの気持ちが綴られています。
Message
私の歌のテーマは〈生と死〉に向き合ってます。
生きている間にどれほどの事ができるか
わからない
けれども、終わってしまうからこそ 頑張れる
だから〈今〉が大事なんだと思う。
父が他界した時は
私は余りにも幼すぎて
〈死〉の意味がよくわかりませんでした。
伝えたいことは後からあとからあふれて
その想いを手紙にしたためては
枕の下にいれて眠りました。
その後、母も癌で入院し
余命いくばくもない時期に
コンサートに行きたいと言いました。
帰ってきたらそれは!それは!飛びきりの笑顔で
嘘みたいに元気になっていました。
そのとき、私は
音楽にはmiracleなpowerがあると感じたのです。
大切な人が生きているうちに
ありがとう
と
ごめんね
は、出し惜しみしちゃダメだと
そう思って今に至ります。
失ってから気づくことだらけだけれども
私にはまだまだやりたいこと
もっとできることが きっと、あるんだと思う
病院の敷地内に音楽hallがあって
外出許可の出ない患者さんも
生のライブを聴くことができたら
あの日の母はもっと喜んだかもしれない。
そんな風に誰かにとっての大好きな人が
元気になる歌が唄えたらいいなと思って
あなたの人生の道の途中に
私の言葉や歌が在ったならば
それはすごく幸せです。
あなたにありがとうを言いたくて
私はうたを歌う
一青 窈
とても素晴らしいメッセージですよね。早くにお母さんを癌で亡くした体験がルーツとなり、「ありがとうを言いたくて 私はうたを歌う」それが一青さんのライフワークとなっていることがよくわかります。
【8年前の“誓い”とそれを守れなかったことに対する後悔】
私は一青窈さんのこのmessageに関連して、私は一度このブログで記事を過去に書いたことがありました。およそ8年前のことです。(当時のブログの記事は以下のURL参照)
https://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2010-04-22-1
この記事を私が書いたときには、まさか自分の母親を一青さんと同じように亡くすことになるとは思ってもいませんでした。そして、そういうことがもし現実になってしまった時のためにも、一青さんのmessageにもあるように、“『ありがとう』と『ごめんね』は出し惜しみしちゃだめだよ”と私自身に向けても書いたつもりであったのにも関わらず、7年後の一昨年、母が膵臓癌の告知を受けてしまったことで、『ありがとう』と『ごめんね』を出し惜しみしたことを痛烈に後悔することとなりました。
本当に皮肉なことだし、やりきれない思いです。
だからこそ、こうした想いを二度と私自身繰り返さないために、そしてこの記事を読んでくれている皆さんにも味わってほしくないからこそ、もう一度繰り返し、この言葉をここで紡ぎたいと思います。
『ありがとう』
と
『ごめんね』
は、出し惜しみしちゃだめだよ
2019-01-14 23:39
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