川崎殺傷事件の報道について思うこと
☆はじめに~川崎殺傷事件にふれて~
2019年5月28日7時45分頃、川崎市の登戸駅付近の路上で私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた小学生の児童や保護者らが、近づいてきた50代の男性に相次いで刺されるという事件が起きました。本日までに被害者2名が死亡し、合わせて20名が死傷するという、またしても凄惨な事件が起きてしまいました。
亡くなられた2名の方については心から哀悼の意を捧げたいとともに、被害に遭われた方々が一刻も早く、そして継続的に適切なケアを受けられるよう心から願っています。
☆事件をめぐるマスコミの一面的な報道
ところで今回の事件について、被害に次いで気になっているがマスコミの報道姿勢についてです。
たとえば、フジテレビ系のFNN PRIMEは5月30日午後5時10分に「部屋にテレビとゲーム機 岩崎容疑者の自宅」と題した記事を配信。またこれ以前にも加害者男性が“ひきこもり”であったことを過度に強調する報道が相次いでいたため、あたかも“ひきこもり”であること、“テレビやゲーム機を所有していること”という事実が事件のきっかけになったと客観的に連想してしまうような一面的な報道がなされていました。
こうした報道に対して、ひきこもり支援活動などを行う一般社団法人「ひきこもりUX会議」は事件を受け、「引きこもりと殺傷事件を臆測や先入観で関連付けることを強く危惧する」と声明を発表しています。
わたしたち自身も、こうした偏見に惑わされないような視点の必要性をあらためて実感する機会となりました。
☆偏見に惑わされないことのむずかしさ
そうはいってもなかなか“偏見”というものを完全に取り除くことはとても難しいことですね。わたし自身も最近身近なところで自身の“偏見”に気付かされるエピソードがありました。
私は95歳になる祖母と同居をしています。半年程前の1ヶ月程の間に祖母が二度も洗面所の蛇口を閉めずに出しっぱなしにしたことがあったのですが、短期間のうちに2回も同じことがあったので、私自身、祖母が“認知症”になってしまったのではないかという疑いを持ったという出来事がありました。
このことに関連してもう一つ、身近というわけではないのですが旧ソビエトの心理学者であるヴィゴツキーについて実際にあったエピソードもあわせて紹介したいと思います。
『ヴィゴツキーに紹介されたのは、ある地方の県から連れて来られた子どもでした。村中の者は皆、この少年が知能の低い子どもとみなしていましたが、ただ身内の祖父だけは村を挙げてのこのような判断を頑なに認めようとしませんでした。やがて祖父が正しいことが明らかになりました。その孫には難聴があって、低知能は二次的なものでその実はみせかけの姿だったのです。』
(「ヴィゴツキー評伝~その生涯と創造の軌跡」明石書店/広瀬信雄 P127)
上記のヴィゴツキーのエピソードをふまえた上で、祖母のケースを考えた時に、きっと祖母が水を出しっぱなしにしてしまったのもやはり“難聴”が原因だったのではないかと思うのです。普段わたしたちが水を出しっぱなしにしないのは、水を出しっぱなしでその場を離れようとすると、否が応でもその水音で気づかされるからです。だからもし難聴のためその水音を聞き取ることができないとすれば、たとえ認知症がない私たちであっても水を出しっぱなしにしたままその場を離れてしまう可能性はあると思います。
また、祖母は半年前の出来事の直前に、1年程続いた老人ホームへの入所から久しぶりに自宅に戻ってきたばかりの時だったということも影響したのかもしれません。
☆“表面的”な出来事でなく、物事の奥底をつかむ視点を
いずれにせよ、いま私自身が祖母と生活をしていて認知症と思うような出来事は一切思い当たらないことからも、私が祖母について“認知症かも”と思ったことは全くもって誤解と偏見であったことは間違いないことだと考えます。
川崎殺傷事件における“ひきこもり”、そして祖母の“認知症”のいずれの件についても、巷ではそのような偏見に無意識的に陥ってしまう罠が至る所に存在しています。
今回の事件の報道に対して私たちに求められるのは、こうしたものごとに対してその“表面的な報道”に踊らされるのではなく、ものごとの奥底をつかむ視点を一人ひとりが身につけていくことなんだろうと思います。
2019年5月28日7時45分頃、川崎市の登戸駅付近の路上で私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた小学生の児童や保護者らが、近づいてきた50代の男性に相次いで刺されるという事件が起きました。本日までに被害者2名が死亡し、合わせて20名が死傷するという、またしても凄惨な事件が起きてしまいました。
亡くなられた2名の方については心から哀悼の意を捧げたいとともに、被害に遭われた方々が一刻も早く、そして継続的に適切なケアを受けられるよう心から願っています。
☆事件をめぐるマスコミの一面的な報道
ところで今回の事件について、被害に次いで気になっているがマスコミの報道姿勢についてです。
たとえば、フジテレビ系のFNN PRIMEは5月30日午後5時10分に「部屋にテレビとゲーム機 岩崎容疑者の自宅」と題した記事を配信。またこれ以前にも加害者男性が“ひきこもり”であったことを過度に強調する報道が相次いでいたため、あたかも“ひきこもり”であること、“テレビやゲーム機を所有していること”という事実が事件のきっかけになったと客観的に連想してしまうような一面的な報道がなされていました。
こうした報道に対して、ひきこもり支援活動などを行う一般社団法人「ひきこもりUX会議」は事件を受け、「引きこもりと殺傷事件を臆測や先入観で関連付けることを強く危惧する」と声明を発表しています。
わたしたち自身も、こうした偏見に惑わされないような視点の必要性をあらためて実感する機会となりました。
☆偏見に惑わされないことのむずかしさ
そうはいってもなかなか“偏見”というものを完全に取り除くことはとても難しいことですね。わたし自身も最近身近なところで自身の“偏見”に気付かされるエピソードがありました。
私は95歳になる祖母と同居をしています。半年程前の1ヶ月程の間に祖母が二度も洗面所の蛇口を閉めずに出しっぱなしにしたことがあったのですが、短期間のうちに2回も同じことがあったので、私自身、祖母が“認知症”になってしまったのではないかという疑いを持ったという出来事がありました。
このことに関連してもう一つ、身近というわけではないのですが旧ソビエトの心理学者であるヴィゴツキーについて実際にあったエピソードもあわせて紹介したいと思います。
『ヴィゴツキーに紹介されたのは、ある地方の県から連れて来られた子どもでした。村中の者は皆、この少年が知能の低い子どもとみなしていましたが、ただ身内の祖父だけは村を挙げてのこのような判断を頑なに認めようとしませんでした。やがて祖父が正しいことが明らかになりました。その孫には難聴があって、低知能は二次的なものでその実はみせかけの姿だったのです。』
(「ヴィゴツキー評伝~その生涯と創造の軌跡」明石書店/広瀬信雄 P127)
上記のヴィゴツキーのエピソードをふまえた上で、祖母のケースを考えた時に、きっと祖母が水を出しっぱなしにしてしまったのもやはり“難聴”が原因だったのではないかと思うのです。普段わたしたちが水を出しっぱなしにしないのは、水を出しっぱなしでその場を離れようとすると、否が応でもその水音で気づかされるからです。だからもし難聴のためその水音を聞き取ることができないとすれば、たとえ認知症がない私たちであっても水を出しっぱなしにしたままその場を離れてしまう可能性はあると思います。
また、祖母は半年前の出来事の直前に、1年程続いた老人ホームへの入所から久しぶりに自宅に戻ってきたばかりの時だったということも影響したのかもしれません。
☆“表面的”な出来事でなく、物事の奥底をつかむ視点を
いずれにせよ、いま私自身が祖母と生活をしていて認知症と思うような出来事は一切思い当たらないことからも、私が祖母について“認知症かも”と思ったことは全くもって誤解と偏見であったことは間違いないことだと考えます。
川崎殺傷事件における“ひきこもり”、そして祖母の“認知症”のいずれの件についても、巷ではそのような偏見に無意識的に陥ってしまう罠が至る所に存在しています。
今回の事件の報道に対して私たちに求められるのは、こうしたものごとに対してその“表面的な報道”に踊らされるのではなく、ものごとの奥底をつかむ視点を一人ひとりが身につけていくことなんだろうと思います。