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子どもたちから教えてもらったこと(2)-他者への理解と想像(後編)-

☆“他人事”ではなく“自分事”、その言葉に潜む違和感

 前回の続きとなりますが、私たちはいったいどようにすれば、他者に“レッテル貼り”をせず、他者への理解と想像を巡らし続けるちから=“ネガティブ・ケイパビリティ”を培うことができるのでしょうか。

 私は、このことを実現する第一歩として、『“他人事”ではなく“自分事”』として考えることの重要性を訴えたいと思います。

 『“他人事”ではなく“自分事”』、この記事を読んでいただいている皆さんの中にはきっと『えっ!?』って思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 『“他人事”ではなく“自分事”』、この言葉は巷でもよく使われていますよね。よく社会運動に携わる方々が、比較的当該分野の問題に関心が薄い方に対して、問題意識を持って欲しい時などによく使われたりするのではないでしょうか。学校でも社会や道徳などの授業で先生が生徒さんたちに対して口にしていることもあるかもしれません。

 当たり前すぎる言葉でもありますし、皆さんの中には「大事なことだとは思うけれどそうはいっても・・」と考える方が多いのではないかと思います。

 実は私自身もつい最近まで、この言葉に対して少なからず“違和感”なるものを抱えていました。


☆“他人事”ではなく“自分事”と捉えることの難しさの根底に存在するもの

 それはきっと、“他人事”ではなく“自分事”という意義に対する違和感ではなく、むしろその“使われ方”に対する違和感だったのであろうと今では私は考えています。

 そもそも今回の虐待死事件だけに限らず、世の中の様々な出来事を“自分事”として捉えるというのはなかなか難しいものです。そしてその難しさの根底には、現代社会における特有の自己責任論に伴う“個人化”(もしくは孤立化)という問題が横たわっているのではないでしょうか。
 
 日本においては、特にこの20年の間に様々な分野で進行した新自由主義的改革によって、国民生活を不十分ながらも支えていた公的社会保障や企業福利が大幅に縮小されています。それによって医療・介護・教育・福祉などの国民生活に関わるサービスは、国民自らがその負担を請け負わざるを得ない体系が作られてきました。

 社会・文化的にもこれに伴う形で“自己責任論”が跋扈したこともあり、物理的にも精神的にも国民にとって“社会”なるものが喪失してしまい、あらゆる問題はすべて個人の責任に帰される状況となってしまっています。

 社会なるものが喪失しあらゆる責任が個人に帰される中で、法政大学の平塚眞樹氏は、「自分一人をまかなうことで『イッパイイッパイ』な時に、周囲のそれほど近しくない他者や社会問題に興味以上の関心を向けることは容易ではない。」(憲法改悪と若者『問題』/「教育」2005年1月)と指摘をしています、

 このような自己責任論の代償として現代日本においては“個人化”(孤立化)が進行し、この問題こそが「“他人事”を“自分事”」と捉えることの難しさの根底に横たわっているのではないかと思います。

 こうした中で、もし“他人事”ではなく“自分事”と言われたとしても、言われた人は「それよりも自分が危機なんだ」と率直に思うだろうし、そもそも「イッパイイッパイ」なのは、言葉を言われる側だけではなく、言う側についても同じことです。だからこそ“他人事”ではなく“自分事”という言葉は時に、言う側の善意や良心に端を発したものではありながらも、言う当人に余裕がないがために、結果的に“強制”や“圧力”が含まれる形で聞き手に伝わってしまうケースが少なからず存在するのではないかと思います。

 こうした言葉に含まれた“強制”や“圧力”こそが、“自分事”ではなく“他人事”と言われた時に私が感じた違和感だったのではないかと思うのです。


☆“他人事”と“自分事”のあいだに広がる地平

 このように、現代において“他人事”ではなく“自分事”と捉えることは難しいことではありながらも、私が敢えてこのことの大切さを訴えたい理由は主に2つあります。

 1つ目は、私たちが“他人事”だと考えている問題も、その問題の本質を探ってみると実は私たち一人ひとりが抱えている問題と全く無縁ではなく、通底しているものがあるのではないかということです。

 この点については、ここでも栗原心愛ちゃんの虐待死事件を例に触れてみていきたいと思います。

 前回の記事でも紹介させて頂いた厚木市立病院の岩室紳也医師はこの事件に触れて下記の通り述べています。

「結果のみを見て話すのではなく、問題の根底を考える必要がある。依存を促進する背景には、自己肯定感や居場所のなさ、周りとの関係性の希薄さにある。『自分とは関係ない』と隣の人を見ないのではなく、何かあった時に『隣の岩室さんに聞いてきて』なんて言える環境があるといい。」と岩室氏は語っています。

 上記の通り岩室氏は、今回の虐待死事件が起こってしまった背景には、母親の“自己肯定感の欠如”と“周囲との孤立”が存在していたことを指摘しています。この“自己肯定感の欠如”、そして“周囲との孤立”というものは、私たちにとって無縁のものだといえるのでしょうか。

 “周囲との孤立”という点については、上記において既に“自己責任論”の代償として、現代日本において私たちが共通して抱える問題であることを指摘させていただいています。

 岩室氏が指摘したもう一つの“自己肯定感の欠如”といった点ではどうでしょうか。岩室氏が述べている“自己肯定感”とは=“自己への信頼”とも言い換えることができると思います。この“自己への信頼”という視点で先述の平塚眞樹氏は以下の通り指摘をしています。

「関係やつながりがあらゆる場面で断ち切られ、あるいはあっても見えづらくさせられ、人は他者の責任をシェアしない代わりに、自己の責任を一人で負うことを強いられる。そのような社会のもとで、人はどのようにして『信頼』をわがものとしていけるだろうか。」
(高校生活指導2006年春号平塚眞樹 “不安定で危うい”人生軌道の新たな出現にどう対峙するか)
といったように、自己への信頼(=自己肯定感)の形成といった点においてもやはり、現代日本の“自己責任論”が重い影を落としてしまっているのです。

 このように考えると、心愛ちゃんの母親やその母親をバッシングしていた方々、そして“他人事”を“自分事”と捉えられない私たち。みな一様にそれぞれが抱えている問題に対して“自己責任論”という現代日本を蝕む思想が通底しているわけです。
 
 だからこそ今回の虐待死事件についても、一見“他人事”のようにみえますが、実は現代日本における“自己責任論”の犠牲者という点では“自分事”でもあるという、共通の地平が事件と私たちの間には広がっているのではないでしょうか。


☆“共通の地平”への気づきこそが、自身の状況を改変していく力に

 2つ目は、1つ目のところで述べたように“他人事”と“自分事”の間に共通の地平が広がっているからこそ、“他人事”を通して自分自身の抱える問題について気づき、自身の取り巻く状況を改変していく土台になり得るということです。

 “他人事”の中に共通の地平を見出すことにより、ずっと彼岸の存在だと思っていた他者に対してはじめて“共感”できる素地がうまれます。

 今回の虐待死事件において、心愛ちゃんの母親の置かれている状況を“自分事”と考えることで、わずかにでも心の中に“共感”の気持ちが生まれたとします。その時に、今回の事件でも一部の心無い人が行ったような“バッシング”という行為ではなく、そのわずかにでも共感がうまれたのであれば、それをSNS上でコメントという形で表現しても良いですし、周囲の知人や友人などに話してみたりして欲しいと思います。

 そうすることで、もしあなたのSNS上でのコメントに“いいね”が1つでもついたり、知人や他者から“そうだね”と言ってもらえたのであれば、その他者からの受容された経験はきっと、あなた自身が“自己責任論”に縛られ抱えていたであろう“自己肯定感のなさ”や“孤立感”を解消する大きな力となってくれるに違いありません。

 このように“他人事”を“自分事”と捉えることは、“自分事”を“他人事”を通じてその問題に気づき、自らの状況を改変していく大きなきっかけとなり得るのです。


☆自身も「“弱者”であるかもしれない」という事実を受け入れることの困難さ

 しかし、このような変化はとても難しいことです。とりわけ心愛ちゃんの母親にバッシングをしていた方々の場合には、バッシングを加えることで彼女を“弱者”とし、それと対比する形で相対的に自身を“強者”と認識することで、自らの自己肯定感のなさを覆い隠していたのかもしれません。

 もしそうだとすると、今回の虐待死事件を“自分事”と捉えることによって心愛ちゃんの母親に対して“共感”し、自身が彼女と同じ地平に立っているというふうに認識することは、自分自身も彼女と同じように、本当は“弱者”であるのかもしれないと認めることになってしまうからです。

 だからこそ“他人事”を“自分事”と捉えることで、わずかに生まれた“共感”から踏み出した一歩というものを、私たちは全力で支えていくことが求められるのです。

 もし誰かが今回の虐待死事件を“他人事”を“自分事”で捉えることによって生まれた共感をSNS上でコメントをし、“いいね”がついたり、知人や友人に話をして“そうだね”と言ってもらえたとしても、『自分自身も(心愛ちゃんの母親のように)“弱者”かもしれない』という事実はすぐには受け入れられないかもしれません。

 しかし、もしあなたがたとえ“弱者”であったとしても、そこに存在するのは少なくとももう『他者にバッシングを加えることで相対的に“強者”であろうとするような“弱者”』では決してありません。

 そこに存在するあなたは、「“弱者”である」という事実は変わりはないかもしれないけれど、他者に自身を受容された経験を通じたあなたは、その自らの“弱さ”を他者への攻撃性としてではなく、それとは逆に「他者に共感し手を差し伸べるための“弱さ”を持った主体」というあなたとして存在しているのではないでしょうか。


☆“ネガティブ・ケイパビリティ”を培うために必要な“弱さ”の受容と関係性
 
 以上、とても長くまわりくどい話になってしまいましたが、私は安易に人をバッシングすることのないような“ネガティブ・ケイパビリティ”を培うために一番必要なのは、“自分事”ではなく“他人事”と捉えることを契機に、こうした自身や他者の抱える“弱さ”に共感し、受容できる主体としての成長なのだと考えます。

 同時に忘れてならないのは、“弱さ”を受容することができる主体の形成には、それを受け入れてくれる他者の存在というものが必要不可欠だということです。“他人事”ではなく“自分事”と捉える立場についても“ネガティブ・ケイパビリティ”の形成についても、それが本当に可能にするのは“自己責任論”社会で推奨されるような“個に還元された力”ではなく、"他者との共同の営み”という視点においての関係性の存在なのではないでしょうか。

 思えば、一番最初にお話しした甥っ子が、9歳年下の姪っ子をあれだけ根気強く面倒を見ることを可能にしているのは、もちろん甥っ子自身が“お兄ちゃん”として立派に自覚を持っていることに由来するのは間違いありません。

 しかし根源的なところでは、まだ生後3カ月であるがために他者の支えがないと生きることができないという人間の本質を成す“弱さ”を抱えた姪っ子が、泣いたり笑ったりという限られた手段で懸命に行っている他者への呼びかけに対して、甥っ子が共感し呼応するという関係性が既にそこに存在しているのです。

『エミール』の著者であるジャン・ジャック・ルソーは、人間を社会的にするのは“人間の弱さ”だといいます。甥っ子が、姪っ子の人間の本質を成す“弱さ”に共感し、呼応することができたのは、甥っ子自身がまた親をはじめとする周囲に人間から受容され、愛されてきたという“関係性”の経験こそがそれを可能にせしめたのだと思います。


☆”弱さ”が受容される、”オルタナティブ”な社会の創造を

 最後に、やはり人が他者に対して理解と想像を巡らし続けるためにはこれまで見てきたように、他者との関係性を土台とした”受容”と”共感”が最終的には必要です。”自己責任論”が蔓延する現代社会においてこうした関係性の形成自体がとても困難をともなう作業となりますが、しかし決して不可能なことではありません。

 先に話したSNSでの”いいね”だけでもそれが無数に集まれば、当事者にとってどれだけ大きな力となるでしょう。今わたしたちに求められているのは、そういう自己責任論が蔓延する社会とは全く別個の”オルタナティブ”ともいえる社会の創造ではないかと思うのです。

 甥っ子が姪っ子に対して当たり前のように根気強く面倒をみていたような行為を、この社会の隅々に至るまで当たり前のように実践できるような社会を作っていくことこそ、先を生きる私たち大人の務めなんだろうな・・と改めてこどもたちに教えられたような気がします。

 
 
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