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未就労者の実態と”意欲の貧困”(補稿)

☆”意欲の貧困”についてもう少し立ち入って

意欲の貧困についてもう少しだけ立ち入って書いておきたいと思います。

先の(2)の記事の中で、「”意欲の貧困”を抱える者にいくら檄を飛ばそうとも、それによって簡単に”できる”と思えるはずがありません。 彼/女らは、他人から叱咤激励されるまでもなく、その何百倍も、日常的に、自らに対して叱咤激励を飛ばし続けているのであり、そのストレスによる精神の摩耗が”意欲の貧困”をもたらしている面が大きいのです。」

と書きました。

こうした”意欲の貧困”を抱えている当事者が、具体的にどのような精神状態に陥る可能性があるかについて、湯浅誠氏は別著(「生きづらさ」の臨界”溜め”のある社会へ」旬報社 湯浅誠・河添誠編)でもう少し詳細に述べています。
※以下本文引用

「(意欲の貧困を抱える若者たちは)身体が思うように動かない中、自らを叱咤激励して、これまではなんとか持ちこたえてきた。しかし、それが限界に達する。いままで働いてきたのだから、働けないことはないと感じる。家族や周囲もそう見る。しかし社会保障には彼/彼女を受け止める準備がない。進むことも退くこともできない中、生活が立ち行かなくなる。

注意すべきは、この時、人は一時的に『病気を忘れる』ということだ。生きることに必死になったとき、自分の体が発する信号に意識的・無意識的に蓋をするためだ。そして一時的に『元気』になる。”もやい”にくるときには、そうした状態になっている人が少なくない。しかし、それは回復・治癒とはちがう。その『元気』は、疾患に蓋をしただけの、より悪化した状態である。そのため、生活保護申請などを通じて収入を確保し、生活が落ち着くと、もう一度元の疾患をぶり返す。

しかしそのプロセスを知らない人、見ようとしない人は『やればできるじゃないか』と言い、その極度の緊張状態を常態化することを求めてくる。また、ぶり返した本人の脱力状態をみて『生活保護を受けると甘えて働かなくなる』と言い、本人を叱責し始める。それが回復のプロセスなのだということを理解できない。そうした、ようやく回復し始めた本人を追い詰め『自立』から遠ざける。」


☆十分とは言えない”意欲の貧困”を抱える当事者の精神状態への理解

 上記の通り、湯浅氏は、”意欲の貧困”を抱える人たちを援助していくにあたり、貧困を生み出している社会構造そのものを理解することと同時に、その社会構造が当事者にもたらす精神状態についても理解する必要性を指摘しています。”溜め”という言葉はそのためにつくれられたのだといいます。

 しかし、この社会構造が本人にもたらす精神状態については、実践的にはまだまだ理解されているとは言い難い状況にあります。
 こうした人たちに個別に関わる機会のある人たち人には一定程度理解されてはいると思いますが、その蓄積はまだ活動全体には位置づけれられておらず、「理解のある人」「やさしい人」といった活動家のキャラクターの問題に片付けられている面があり、運動の進展のために必要な視点という位置づけが与えられていないことを同時に湯浅氏は指摘をしています。


☆”社会的告発”と”個別的ケア”の優先度をめぐる対立

 他方で、こうした”意欲の貧困”を抱える人の精神状態がわかる人たちは、そのケアワークに特化し、社会構造的な問題に踏み出しにくい、という別の問題もあります。

(当事者に対して)”溜め”が非常に小さくなっている状態を理解できると「いまは本人も大変、精一杯」ということになり、本人に寄り添う方向に自分の役割を見出します。それはそれで膨大な時間と労力を要することなので、本人対応に手一杯となり、社会的な問題提起まではなかなか至りません。結果としてその問題が外に伝わっていかないことになります。

 だれにとっても一日が24時間しかない以上、こうした帰結はある意味では不可避のものですが、しかし、では両者がお互いの活動を全体像の中に位置づけ、相互に自分たちの足りない点を補ってくれるものだと尊重し合っているかというと、残念ながらそうなってはおらず、むしろ根強い相互不信があるのが実態だと思います。

 そういった問題は例えば、「何かの集会で発言する当事者を探す」そういった時などに顕在化します。社会的な関心が高い人は、「社会的に訴えることによって世論を変える」といった点を重視し、発言を後押しし、説得する側に回りますが、個人的なケアに関心が高い人は「本人に余計なプレッシャーを与えるだけ。ようやく落ち着いてきたところなのに」と消極的になる。もし両者がお互いの主張にこだわれば、「そんなこと言っていたらいつまで経っても社会は変わらない」「目の前の個人を大切にできない活動に未来はない」と突きつけ合いに終わるでしょう。


☆運動側が抱える”対立”を解消していくために

未就労者の実態と”意欲の貧困”の記事を通して私が伝えたかったのは、
一つは”意欲の貧困”を抱える当事者の問題は、自己責任論を突きつけるだけでは何も解決しないということ。
二つ目は、こうした当事者の精神状態への理解の促進。
そして三つ目に、”意欲の貧困”を抱える当事者の問題の解決をめぐって、運動側が抱えているこうした”対立”の解消についてということでした。
 
 こうした運動側の”社会的告発”の機能と”個別的ケア”の機能というものは、どちらかが正しいという類のものではなく、当然のこといずれも必要な機能であることは間違いがありません。
 そして、”社会的告発”と”個別的ケア”の機能は、別個に存在する類のモノではなく、統一的に実践される可能性があると私は考えています。
 
 過去にこのブログの記事にも少し書きましたが、(「戦争体験を聞く企画に参加して②-心的外傷と回復-」http://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2016-08-30-1)ジュディス・L・ハーマンは、傷を負った人当事者の中には、より広い世界にかかわる使命を授けられたと感じる人がおり、将来自分と同じような傷を負わないように教育や政治などの各方面などで、公衆の意識を高めるため(社会的告発)に献身する人が存在することを指摘しています。

 当事者はそうした実践を経ることで、自らを支え共感し、支援してくれる他者との関係(個別的ケア)に絆を見出し、この社会には、まだ傷をいやしてくれる愛が見いだせると希望することにより、回復が図られることも同時に指摘をしています。

 このように、ハーマンは、”社会的告発”と”個別的ケア”の機能を、当事者を中心に統一的に実践する可能性を見出しており、実際にこの点を意識して、自立生活サポートセンターもやいと首都圏青年ユニオンなどは、共同して10数年前から実践を行ってきています。

 良心に従って、この世の中の社会構造とその社会構造によって生み出される”意欲の貧困”などの精神状態に陥ってしまった人たちの問題を解決しようとする多くの人たちの間に、救済しようとしている貧困の当事者をめぐって、更なる対立と悲劇が生まれるようであれば、それは誰にとっても本意ではないでしょう。

 この世の中を良くしようと日々努力されている多くの人の良心が、適切な形で実現されるように、もやいや首都圏青年ユニオンが積み重ねてきた実践などが、幅広く交流され、今後もより発展した運動が各地で展開していくことを願い、今回の記事を終えたいと思います。

 

未就労者の実態と”意欲の貧困”(3)

☆”擁護不可能なゾーン”に存在する若者たちをもカバーするために求められるもの

 前の記事で紹介をした、田原さんの場合、未就労状態ではありましたが、4回も就いた仕事を全て1日で辞めてしまったとはいえ、就職活動自体は行っていました。

そして、(1)の記事では逆に、未就労状態であり、かつ就職活動もせず就業を希望していない”非希望型”が増加していることに注目しましたが、ここに属する人たちも、それぞれに理由があるとは言え、就業を希望していない以上、世間一般からは、田原さんと同じように「努力していない」「意欲がない」というみなされる可能性が高い人たちです。そしてこの中には、”意欲の貧困”という困難を抱えている方も相当数内包している可能性が高く、また、いわゆる擁護不可能な”ゾーン”に存在するという点では共通しているのだと思います。

 先の(2)の記事では、”意欲の貧困”は、「甘え」や「怠惰」といった次元の、自己責任でどうにかなる問題ではなく、ましてやそのことをバッシングすることでは何も解決はしないということを指摘しましたが、こうした”意欲の貧困”を抱えた未就業者の人たちをもカバーできる議論を展開していくために私たちには一体何が求められているのでしょうか。


☆「貧困」とは”意欲の貧困”をも含むもの

 まず必要なのは、私たちが陥りがちな、「貧困」=「経済的な貧困」(お金がなくて貧乏なこと)という「貧困」概念を狭義のものとしてしまう考えを改めることです。つまりは、「貧困」は「”意欲の貧困”を含むもの」として貧困論を再構成することが求められます。

 「貧乏だったが、苦境に負けずに頑張って今の地位を成した」といった成功物語は、貧困を貧乏(経済的貧困)に縮減し、メンタルな問題を切り離すことで成立しています。それは、メンタルの問題が依然として社会構造的な問題ではなく、個人的問題へと領域分けされていることの証左であり、”意欲の貧困”はいわば心理主が他の人たちに比べ小さいのが貧困だといえます。

 「意欲はあるのに仕事がないだけ」「こんなに頑張っているのに報われないのはおかしい」といった議論は、現実は、格差を批判しようとする意図に反して「意欲」を個人的・心理主義的解釈に押し込めてしまい、「意欲の貧困」を抱える現実の貧困者を周辺においやってしまう可能性があるのです。


☆”溜めのない状態”としての貧困

貧困は基本的に経済的生活困窮状態の問題に還元すべきではありません。

 アマルティア・センは上記のような見解を批判して、貧困を「基本的な潜在能力(capability)が剥奪された状態」と定義しています。湯浅氏は、同様の視点から貧困を「相対的な”溜め”のない状態」と定義しています。

”溜め”とは、人を包み外界の刺激からその人を保護するバリヤーのような存在です。たとえば、貯金などの金銭的な”溜め”、家族・親戚・友人といった人間関係の”溜め”、ゆとりや自信などといった精神的な”溜め”、そして自己責任論を批判的に捉え返すことのできる知識・知性も重要な”溜め”だといえます。

人はそれぞれ人なりの”溜め”を持ち、”溜め”に包まれて生きています。その”溜め”が他の人たちに比べ小さいのが貧困だといえます。

 「意欲の貧困」はこの”溜め”のなさのひとつの表れであり、別の有形有無の”溜め”と密接に関連している状態といえます。強い家族的紐帯、または親友たちの励ましのもと、経済的困窮状態に立ち向かい克服したといったサクセスストーリーは、「誰だってその気になればできる」ことを示しているわけでは決してなく、人間関係の”溜め”が、時には経済的貧困に打ち克つほどの重要な”溜め”の機能を有していることを示しているのだと思います。


☆最後に・・

 今この世の中で、未就労状態におかれている人は数多くいます。人によってはせっかく就いた仕事をすぐに辞めてしまい、「根性がない」ようにみえるかもしれません。また、就職活動もまったくしないで、家にひきこもっているような「甘えている」ように見えるかもしれません。

 繰り返しになりますが、こうした意欲をはじめとする貧困状態におかれている人たちに対して、その状態に甘んじていることを自己責任だとバッシングすることで何も解決はしないし、その方々がその状態に置かれていること事体がとても自己責任に収斂できるような問題ではないということです。

 一見うずくまっているようにしか見えない人に対して、バッシングをしたり、「特別な人」と排除するだけでなく、そうした方々こそ、今の社会構造の歪みが生み出している末端部分に位置する人たちと、運動側に携わる人たちがカバーしていく視点を持たなければならないのでしょうか。
 

未就労者の実態と”意欲の貧困”(2)

こうしたいわゆるグレーゾーンに存在する若者をどう捉えたら良いかについて、「若者の生活と労働世界」(大月書店)で、湯浅誠氏が非常に示唆に富む捉え方を展開しています。
以下、ほとんどこの著書の中の引用となりますが、紹介していきたいと思います。


☆グレーゾーンに存在する若者の実例から

田原俊雄さん(仮名:35歳男性)は湯浅氏の所属するNPO法人自立生活サポートセンターもやいにSOSの電話をかけてきた方の一人です。

田原さんが、生活困窮に至った経緯は、以下の通り。
2006年4月まで半年ほど下町の小さな製造工場で正職員で勤務。しかし4月に風邪をひき、それが長引いて10日程欠勤。連絡は毎日入れていましたが、電話で即日解雇を言い渡されます。その後彼は三ヶ月間、ほぼ毎日ハローワークに通い、三ヶ月の間に産廃処理工場など計4回採用されます。しかし彼はその全てを1日で退職。

話を聞けば、どの仕事も「自分についていけるとは思えなかった」とのこと。ちなみに本人には疾病や障害はなく、いたって健康であったとのことです。


☆運動側が意図的に見落としがちなグレーゾーンの若者たち

「格差」をめぐって、政治家や財界人は「勝ち組」を念頭において「(勝ち組に属する人たちが)努力しても報われない社会はおかしい」といって、格差容認論を展開しています。

一方、それを批判する運動側の人たちは、「負け組」を念頭において、「(負け組の属する人たちだって)努力していないわけではない、機会の平等が確保されていないのが問題だ」と反論します。

一見、上記のそれぞれの主張は、全く正反対の立場のように思えます。
しかし実は、”自分が擁護したいと考える対象者に正当な見返りが与えられていない”という点で、両者の主張は共通しているのです。

このことを念頭においた上で、上記の田原さんのような人を私たちはどう擁護すれば良いのでしょうか。

確実に言えるのは、「働く気はあるが、仕事がない」という理屈はこの場合通用しないことです。では、田原さんに働く気がないかといえば、それも違います。もともと働く気がない人が3ヶ月も毎日ハローワークに通い、1日で辞める仕事に4回もチャレンジするはずがないからです。

そもそも、運動側が格差容認論を批判する根拠としているのは、最初に述べた、「(負け組の人たちだって)努力していないわけじゃない」という点でした。しかし、格差容認論への反論の前提となる”努力をしている”という要件については、4回も仕事を1日で辞めている田原さんのような人々が、世間一般から認められるかといえば、正直困難だと言わざるを得ません。

 運動側の人たちにとって、田原さんのように正直努力をしていると言い難い人たちは、論拠の前提が成り立たないわけですから、実質的に擁護不可能ということになってしまいます。

だからこそ、田原さんのようなグレーゾーンに存在する人たちは、格差容認論を批判する運動側の人たちにとって、”例外”とみなされ、これまでも意図的に見落とされてきたのではないでしょうか。


☆「努力している」「意欲はある」を前提にすることの落とし穴

そして、「みんな努力しているんだ」という擁護の仕方は、他方で田原さんのような人たち当人を追い詰めていってしまうことにもなります。
「テレビに出ていた(腰を痛めてしまったという)人ならしょうがない。でも自分は違う。自分の場合はやはり自分が悪いのだ」・・と。

擁護するためのふるまいだったはずが、現実には擁護したい当の本人たちを追い詰める。”意欲はあるはず””努力している”という反論を前提にしていることが、寝坊したことのある、さぼったの事のある、健康体なのに昼間からぶらぶらしてる本人たちを追い詰めてしまいます。

私たちはあらためて正面から、「家賃も払えず、食べるお金にもこと欠くような生活困窮状態で、それでもせっかく就いた4回の仕事をいずれも1日で辞めてしまう」田原さんのような人たちをも包括するような反論建てを考えなければならないのではないでしょうか。


☆仕事に就くことと成功体験

この本の中で湯浅氏は、そもそも「仕事に就くこと」とはどういうことか?について論じています。
湯浅氏は、新たな仕事に就くとは、「会ったことのない人たちと、使ったことのない機械等を駆使して、やったことのない作業を遂行することであり、かつそれを多くの場合余裕のない人員配置の中で、「空気」をみながら無難にふるまいつつ、徐々に仕事を覚えていくこと」と指摘しています。

しかしだからといって、当然一日で辞めて当たり前とはもちろん言えません。多くの人たちは同様の状況に放り込まれ、最初は「使えない」ことを叱咤され揶揄されながら、それでも人になじみ仕事になじみ、徐々に「戦力」としての地位を確立していっているからです。

ここで言いたいのは、職場に飛び込んだ初日に未経験者でも簡単にこなせる「仕事」などというものはおそらくなく、それゆえ「自分は、いずれこの作業を無難にこなせるようになり、ここの人たちともうまくやっていける」と感じることには実は根拠がなく、それでも多くの人たちはそう信じて、現実にその未知へのダイブを遂行している、という事実が存在するということです。

ではなぜ、多くの人たちは根拠もなく「できるさ」と思えるのかと言えば、それは「やったことがなかったけど、やってみたらできた」という成功体験を生育過程で積んできたからではないでしょうか。その機会は、家庭・地域・学校・以前の職場のどこか、またはその全てで繰り返し提供されてきたはずです。

逆に言えば、そのような機会に恵まれなかった人がどう頑張っても「できるさ」とは到底思えなかったとしても、それほど不思議でも奇妙でも、またありえないことでもないと思います。


☆”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるもの

このような、いわば”意欲の貧困”とは、つまり、自分が限界まで意欲を振り絞ったとしてもそれが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域までに到達できない、という事態なのです。

田原さんにとって「どう考えても自分にはついていけない」と感じてしまうことは、病気で身体が動かないのと同じくらい自分にはどうすることもできない、コントロール不能な事態なのではないかと推測できます。
 そしてそれは、多数者の仕切りと合致しないがために、負の符牒を背負わされて「甘え」や「気合い」の不足といった根性論へと還元されるのです。

しかし、筋力のない人間が何百回「できるはず」と叱咤激励されようとも、やはり石膏ボード4枚をかついで一日中階段を上り下りすることができないように、「意欲の貧困」を抱える者にいくら檄を飛ばそうとも、それによって簡単に「できる」と思えるはずがありません。
彼/女らは、他人から叱咤激励されるまでもなく、その何百倍も、日常的に、自らに対して叱咤激励を飛ばし続けているのであり、そのストレスによる精神の摩耗が「意欲の貧困」をもたらしている面が大きいのです。

そうなれば、もう”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるものとしかいいようがありません。

このように”意欲の貧困”は、「甘え」や「怠惰」といった次元の、自己責任でどうにかなる問題ではなく、ましてやそのことをバッシングすることでは何も解決はしない、その視点を私たちはしっかり認識しておく必要があるのではないでしょうか。

未就労者の実態と”意欲の貧困”(1)

☆はじめに

 2つ前の記事で「生きる意味」というテーマでブログを書きました。

 なぜ、このようなテーマで記事を書いたのかといえば、「生産活動に携わっていない人間は価値がないのか?」という素朴な疑問を私が感じていたことがきっかけでした。

生産活動に携わっていない人というのは、一言でいえば、働いていない人、未就労者とも言い換えることができると思いますが、人間にとって働くことの意義を否定するつもりは毛頭ないにせよ、現代社会では、就労というものをあまりにも絶対視しすぎているのではないかと思うのです。

この世の中には、病気や障害のために人並みに働けない人たちが存在しますし、そして就労という形でなくても社会的に有意義な取り組みをしている人たちもたくさん存在します。

就労の是非だけに過度に価値を置きすぎてしまうと、他に見なくてはいけないものが見えなくなってしまう、そんな気がするのです。


☆未就労者に対する視線が厳しくなっている時代


そうした私の想いとは逆行する形で、現代日本において、未就労者に対する視線は厳しさを増しています。

特に2004年頃、未就労で就職活動も就学も職業訓練も受けていない若者に対して「ニート」という言葉が玄田有史氏によって生み出され、巷では”ニートバッシング”ともいうべき若年無業者への辛辣なバッシングが行われました。

2004年といえば、イラク人質事件が発生し、拘束された3人に対して政府が「自己責任だから」と突き放す態度をとったことから、日本中で「自己責任論」のバッシングが行われるなど、日本中が自己責任的な風潮へ突き進んでいった時代でもありました。

あれから10年以上の年月が経った今、世間での自己責任的な風潮はいっそう強まり、未就労者への視線も厳しさを増しています。
 

☆未就労者は働く意欲がないわけではないという対抗言説

 こうした未就労の若年無業者に対して、「甘えている」「怠惰」などのの自己責任論的なバッシングが強まる中で、これらのバッシングに対抗する運動側の言説として一般的だったのは、「そもそも働き口がないのでは?」といった、未就労者の増加の原因を社会構造に帰する論理でした。

事実、先述した玄田氏が2004年に出版した「働く過剰」では、2002年において、15歳〜34歳の未婚無業者数214万人の内、実際に就職活動をしている若者は129万人(60%)であり、就業を希望しつつも職探しをしていない若者は42万人(20%)と、就業を希望している割合は実に8割以上であり、若年無業者の8割は、就労を希望していたことが明らかとなっています。

8割もの若者が就業を希望しているのに、実際に働けていないというのは、まさに彼らや彼女らが就業機会に恵まれていない、つまり未就業者がこれだけ多くなっている問題は、そもそも働き口が存在していないという社会構造にこそ問題の本質があるというのは明らかでした。


☆対抗言説だけではカバーできないゾーンにいる若者たち


あれから10年超。現在では状況はどう変化してきたのでしょうか。

2015年の全国就業機会パネル調査では、15歳〜34歳の未婚無業者数137万人のうち、実際に就職活動をしている求職型は65万、就業を希望しつつも就職活動をしていない非求職型は12万人、就業を希望していない非希望型は60万人となっています。

なんと非希望型について比較してみると、2002年と比較して絶対数が18万人の増、(42万人⇒60万人)、そして割合としても2割の増(2割⇒4割)と絶対数、割合ともに大幅に増加傾向となっていることがわかります。

このように、”非希望型”が絶対数・割合ともに増加しているという問題は、実はこれまでの「働き口が存在しない」という対抗言説でカバーしにくいという性質があります。

就業を希望していて、かつ実際に就職活動をしているのであれば、「実際に働き口が少ないのだから未就労でもしょうがない」という風に一般的にも納得しやすいですが、就職活動どころか、就業すら希望していないというのであれば、それこそ「自己責任」「甘え」「怠惰」だという烙印を押されやすく、運動側に属する人の内部でもそうした思いを持つ人が一定数存在するからです。

だからこそ、この”非希望型”の若者をどう捉えるかという視点こそが、今運動側に属する人間にとって大きな課題となっているのだと思います。

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