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『ねえ、これ、やんなくても良い・・・?』


「ねえ、これ、やんなくてもいい?」



うちの職場の先輩には、今小学校2年生の娘さんのMちゃんがいます。

先輩は夫婦共働きなので、二人とも仕事が長引くと、たまにMちゃんは職場に遊びに来ます。



昨年の春の、ある土曜日。

この日は、午後から家族でお出かけということで、Mちゃんは朝から職場に連れてこられていました。


朝から特になにもやることがなく、手持ち無沙汰にしていたMちゃん。

そんな様子を見かねて、私はポケモンの塗り絵と色鉛筆をMちゃんの前に置いて、「塗り絵でもやってたら?」と声をかけました。

その時、もちろん私の心の中には、Mちゃんが喜んで塗り絵をやってくれる姿を見せてくれるのでは、という期待があったことは言うまでもありません。


しかし、このことに対してMちゃんから発せられた言葉は、私にとって予想外のものでした。


「ねえ、これ、やんなくてもいい・・?」


と、Mちゃんは自分の気持ちに正直に、「塗り絵をしなくても良いかな」と私に聞いてきたのです。


塗り絵をやりたくないというMちゃんの返答は、喜んで塗り絵をやってくれる姿を期待していた私にとっては、予想外のものであったのだけれども、私はこの時、思わず心の中があったかくなるのを感じました。


塗り絵をやりたくなかったMちゃん。

やりたくないのであれば、子どもらしく「ヤダッ!」と一言返事をして私を一蹴すれば良かったはず。

もしくは、塗り絵をやりたくはないけれども、断るのも面倒だから、ちょっとだけ手を出して、すぐやめるという選択肢もあったはずです。

この場合、Mちゃんが前者の対応をした場合はいわずもがな、後者の対応をしたとしたとしても、私自身きっと、Mちゃんにやりたくもない塗り絵を強制させてしまったという罪悪感にさいなやまされていたことでしょう。


でもMちゃんは、そうした態度をとりませんでした。

Mちゃんは私が「塗り絵でもやってたら?」と声をかけたとき、ほんの一瞬だけ逡巡した様子を見せた後、「ねえ、これ、やんなくてもいい・・?」と返事をしてくれたのです。


Mちゃんのとったその一連の態度の中に、Mちゃんのちょっとした相手への気遣い、そして相手への誠実さというものが垣間見れたような気がして、だから私は思わず心があったかくなったのです。



Mちゃんはまだ小学2年生。


まさか小学2年生に、相手への気遣い、誠実な対応、そういうコトを学ぶ事になるとは思わず、背筋を正されるような想いでした(笑)

ボランティア活動で大切なこと

☆5年前の出来事から・・

5年くらい前になるかな・・、ボランティアの集まりで感じたこと。
ボランティアサークルの会議の中で、サークルの活動方針について話している時でした。


☆言葉にならない想いを読み取ること

サークルの活動方針をたてる際に、個人個人のやりたい事を大事にしながら活動内容を毎回決めているわけですが、この日、会合に初参加してくれた学生さんにアンケートという形で取り組みたいことを書いてもらいました。
その学生さんは東日本大震災へのボランティアについて○をしていて、他の項目には特に触れていませんでした。

アンケートだけを見ると、この初参加の学生さんは、東日本大震災へのボランティア以外に興味がなさそうにとれますが、この学生さんにいろいろ話を聞いてみると、実際には、東日本大震災とは直接関係のない、自身の就職への不安だったり、生活保護を受給している人たちの生活の困難さに思いを馳せていることがわかりました。

後日、その時に一緒に参加していた私の後輩と一緒に、その初参加した学生さんと再度話をする機会がありました。
その際、後輩はその初参加の学生さんの話をとても良く聞いていて、活動方針を作っていく際に、学生さんの話していた就職難の問題や生活保護受給者の生活苦の問題などへの関心を尊重していくことの大切さを語っていました。

その後輩の姿を見て、書かれたアンケートの内容だけにとどまらず、学生さんが語っていた言葉から、活字にはならなかった要求が存在していることを見出し、かつ尊重しようとする後輩の丁寧なまなざしにとても感動したことをよく覚えています。


☆各人の固有の悩みや葛藤に寄り添うことで個々の本当の成長が

私はこの経験から、人と何かを為していく際には、物事を実践していく”当事者”の想いを尊重しながら、取り組む視点の大切さを改めて実感しました。

例えば、”東日本大震災へのボランティアをしよう”といって反対する人は誰もいないでしょう。東北をはじめとする復興支援ボランティアに取り組むという大義について疑う人は誰もいないであろうからです。

ただし、実際にそれを実行する際に全ての人が参加するかといえば、必ずしもそうとは限らない。いくらボランティアのサークルに所属していると言っても、東北の地に行くことへの抵抗感だったり、生活の都合であったり、余裕がなかったり、経済的な負担なども含めて、それぞれが特有の葛藤や困難を抱えていることが考えられるからです。

だからこそ、その集団の中において、「東日本大震災のボランティアに取り組もう」という提案について、実現していくためには、初参加の学生さんの不安や葛藤・要求をはじめ、個別のそうした想いに注目しようとした後輩の視点は大切だと思います。
それぞれが抱える固有の想いに寄り添うことで初めて、”ボランティアに参加しよう”という各人の主体性が生まれるし、この主体性に依拠することで、集団の中で提起された目的は実現できるし、かつ個人の本当の成長も生まれるのではないでしょうか。

このように、若者のサークルなどに一番求められていることなのは、若者自身の個別の要求に寄り添いながら実現し、それぞれが成長を実感できる場であることではないかと思います。


☆大義を掲げて強制する手法

そうした視点が抜け落ちて、サークルの運営上の都合などを優先させてしまうと時におかしなことが起こります。

例えば、
ボランティア = 絶対に必要なこと = 全員参加でやりましょう

こんなようなロジックで、取り組みを強制するようなことって結構あるのではないでしょうか。

取り組み自体に大義があるからということで、なにか強制感を帯びてしまっている。
大義を優先し、それを実践する当事者の想いや様々な不安や葛藤に目をむけずに行動に移すのであれば、表面的にはその取り組み自体は成功したようにみえるかもしれませんが、それを実践した当事者の中にいったい何が残るでしょうか。かとないわだかまりや、不満に裏打ちされた疲労感だけになるかもしれません。


☆当事者の自主性・自発性をいかに引き出すか

多くのボランティア活動に言えることですが、ボランティア(Volunteer)という言葉自体”自発的”という意味を持つように、ボランティア活動が成功する鍵は、構成員の自発性・主体性をいかに引き出すかということ。
そして継続的にボランティアに参加してもらうためには、そこに参加する当事者が参加する中で具体的な魅力や個人の成長を実感できるような取り組みにしていくことが必要不可欠です。


だからこそ、当事者の固有の想いに寄り添うことなしに本当の主体性というものは生まれないし、主体的にかかわろうとしない当事者に不信感を募らせ、権威的に”大義”を押しつけるようなやり方では、短期的には上手くいったとしても、長期的にみればその集団に未来はありません。


「ボランティアにかかわりたいという人が抱えている、「本当は何かしたいんだけれど、でも実際参加するのは大変そう・・」というような想いにいかに応えていけるかどうかというところにこそ、ボランティアの運営に携わる人の専門性が問われます。

きっと前述の後輩は、こうした視点をしっかりもっていたのでしょう。
私自身こうした視点を忘れず、今後も取り組んでいきたいなと思います。

松戸市中1いじめ自殺の事件について

1月23日付朝日新聞の記事より。


千葉県松戸市教育委員会は23日、市立中学校1年の女子生徒(13)が始業式の10日朝に市内の団地から飛び降りて自殺したと発表した。自宅から、いじめをほのめかす内容のノートが見つかったという。同市教委は「いじめの情報はなく、原因とは判断していない」との認識を示したが、今後、ノートの内容などについて調べる。

 市教委の説明では、女子生徒は10日朝から行方がわからなくなり、母親が警察に連絡し、死亡しているのがわかった。自宅には女子生徒が書いたノートや便箋(びんせん)の走り書きなどがあった。市教委が警察に確認したところ、ノートには「いじめっこに仕返しをしてみたい」「自殺しようとしたけど失敗した」などと記されていたという。

 同校では月に1度、いじめに関するアンケートをしているが、女子生徒から訴えはなかったという。伊藤純一教育長は「他の生徒からもいじめの情報はなかった。今のところ、いじめが原因とは判断していない」と話した。



また一人、中学1年生という幼い命が失われました。


自殺した13歳の女子生徒ですが、
(1)始業式のある10日の朝に自殺を決行したということ。
(2)「いじめっこに仕返しをしてみたい」
ということからも、いじめが原因で自殺をしたことは間違いないと思います。

それなのにもかかわらず、松戸市教育委員会は、「いじめの情報はなく、原因とは判断していない」との認識を示しました。

そしてその根拠が、女子生徒の在籍していた中学校で、月に1度実施しているいじめに関するアンケートにおいて、当事者の女子生徒から訴えがなかったこと。そして、他の生徒からもいじめの情報がなかったことだというのです。

正直、この松戸市の教育委員会のまるでいじめなど存在していなかったという、責任逃れに終始する態度に私は愕然としました。


誰でも思うところだとは思うのですが、いじめのアンケートで本人の訴えがなかったこと、そして、他の生徒からいじめの情報がなかったからといって、どうしていじめが存在していないと断言できるのでしょうか。


もともといじめの事実を教師に伝えるということは、被害者の側からすると非常に困難さを伴います。教師にいじめの存在を伝えることで、加害者側の報復としてのいじめがエスカレートする可能性だったり、親にいじめの存在が知られてしまうことへの懸念などがあるからです。

だからこそ、いじめの事実を被害者側から教師に伝えてもらう行為というのは、そもそも非常にデリケートな問題であり、相当の丁寧さが必要です。

そんな中で、いじめのアンケート。いったいどのような形で実施していたのでしょうか。

テストを受けるように、教室の中で全員に配布して書かせていたのでしょうか。
いじめの加害者がすぐ隣の席にいるかもしれない可能性を伴う中で、被害者は”いじめられています”とかけるでしょうか。

校内に、アンケートのポストを用意して、投函させていたのでしょうか。
投函するところを、加害者にみられるかもしれません。

そもそも、いつから学校においていじめというのは、アンケートなどによる被害者側からの自己申告しなければ扱ってもらえない事案になってしまったのでしょうか。


そして、他の生徒からいじめの情報がなかったという根拠についても疑問に思うところです。

当然、加害者側から、「私はいじめをしています」なんていう生徒はいるはずがないですし、他の生徒についても、とばっちりを覚悟で情報提供をすることには相当の勇気のいる行為のため、普通に考えれば、いじめの存在を教師に伝えるということは起こりえないことだと思います。


だからこそ、アンケートによる本人からの訴えがなかったこと、他の生徒からいじめの情報が寄せられなかったことが、いじめが存在していなかったという根拠とはいえるはずがないのです。

引き続き、いじめの存在について詳細な調査をして欲しいと切に願っています。


そして、今回の件で私が一番懸念しているのが、この教育委員会の態度に関する報道が、今現在松戸市内の学校で、ひいては全国でいじめを受けている子どもにどのような影響を与えたかということです。

松戸市の教育委員会の態度、これが、いじめの被害者にとってどういうメッセージとなったのか。私は2つあると思います。

1つは、いじめについては本人が自己申告しない限り、対応はしませんよ。ということ。

2つ目に、「私はいじめが原因で自殺しました」とでも、当事者が遺書を残して自殺をしない限り、いじめの存在と自殺との因果関係を認めませんよ。
ということです。

今現在いじめを受けているこどもたちにとってこれほど辛いことはないでしょう。

子どもたちに少しで寄り添う姿勢があるのであれば、今回のような態度にはならなかったはずです。

いじめで苦しむ子どもにとって少しでも希望が持てるように、松戸市の教育委員会では、対応について抜本的に改善して欲しいし、現場の教師がいじめの問題に少しでも介入する時間と余裕が持てるように、労働環境の改善を図って欲しいと切に願います。

問いと答えの間~続稿~

☆はじめに

「なんだか息苦しいな・・・」
最近、日常生活を送る中で度々心の片隅をよぎる想い。

「私たちはいったいなんのために生きているのか」なんて、青春時代にお決まりのフレーズなんかも頭の中によぎることもある。

「誰もが、生きることに必死なんだろうな・・」って思う。
”生きること”って言うのは、ただ心臓が脈を打って、呼吸をすることに留まらない。だからこそ誰もが生きづらさを感じているんだ。

私は動物になったことはないけど、動物はきっと「私は何のために生きているのか」なんて疑問は抱くことはないだろう。きっと人間だけがそうした疑問を抱き、そして苦しむ。
自らが生きている意味を見出し、それを他者との関係の中で紡ぎ、承認されることなしに、人間というものは本当の意味では生きていけない。

いったいいつから人間はこんなに弱い存在となってしまったのだろう・・・


☆7年前の記事の概要

今から、7年半前に、”問いと答えの間”というテーマで記事を書きました。
(※詳細は下記のURLにて参照。)
http://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2009-09-13-16

この記事の詳細についてはふれませんが、一言でいうのであれば、”問いと答えの間”にこそ人間らしさの本質が存在する。そんな内容です。

新自由主義の思想が日常世界を席巻し、スピードと効率を求める価値観が巷に広がる中で、今一度、そうした価値観を是とする考えを再考するきっかけになれば・・。そんな願いを込めて綴った記事でした。

☆スピードと効率がいっそう求められる時代に

あれから7年。

新自由主義の政策の弊害は私たちの生活世界のより深層にまで影響を及ぼすようになりました。

余裕のない日常生活の中で、私たちは生き抜くために、さらなるスピードと効率を要請されるという悪循環に陥っています。

そんな中で、私たちは生き抜くために、本来の意味での”生きる”ということ、そしてその意味を問うことすら見失いつつあるのではないでしょうか。


☆”即断即決”が評価される価値観

新自由主義がはびこる社会の中で、”是”とされるのは、スピードと効率最優先の社会に適応できる価値観と能力を持った存在です。

具体的にはどんな場面においても”即断即決できる”能力を持った人材とでも言えるでしょうか。

何かの物事を遂行する際に、”何故”などと理由を問うことや、悩み戸惑う暇があれば、少しでも物事を前に進めていける存在。そのための強さをもった人材が今求められていると思います。

しかし、そうした”即断即決”というようなスピードと効率を求める価値観を背景に行われる行為というものは、現実的には様々な弊害を内包しているように思われます。

そして、この世の中には、”即断即決”をする能力を持っている人、そして持っていない人の間には明確に評価や待遇などの序列が存在します。
今回の記事では、そのような能力の差というものが実際のところどれだけ存在するものなのか、そしてそれがもし存在しないのであれば、即断即決ができる人とそうでない人の間にはどのような差異が存在するのか、について考えてみたいと思います。

☆即断即決の背景にあるモノ

ます、即断即決できる人とそうでない人。巷だでは頭の回転が速い人ともいわれていますが、その間には本当に大きな能力の差なるものが存在するか否かということです。

私は、ごく一部の人は除き、この世に生を受けているほとんどの人の間には顕著に見える程、そのような能力差なるものは存在しないと考えています。

実は”即断即決できる能力などは、日常の中において大抵の場合は、当事者の頭の回転の善し悪しなどに依拠しておらず、全く別のものに依拠して行われているのではないでしょうか。
私は、以下の条件を満たせれば、誰でも即断即決という行為は可能だと考えています。

①価値基準の明確化

一つ目は、”価値基準の明確化”。要するに、自分にとっての優先順位、判断基準なるものを決めておくということです。

人がなぜ迷い、悩むのか。それはきっと自分のためだけではなく、自分以外の他者の価値観やその背景、意向などを汲み、調整しようとするからだと思います。

もし、自分以外の他者やひいては社会のことなどはお構いなく、自分の利益だけ考えるのであれば、人はどんな場面においてもその選択肢に迷ったりはしないでしょう。

②代償への盲目化

二つ目に、価値基準を明確化(大抵の人は自分自身の利益を最優先とする)することで、必然的に生じる自分以外の他者、社会が被る不利益について目を瞑るということです。

自分自身が自分の利益を最優先にすることで生じる他者への影響などを考えてしまえば、必然的にその判断に迷いやとまどい、葛藤を抱えることとなり、当然即断即決などは夢物語となってしまうからです。

以上、この2点が実現できれば、頭の回転の能力に問わず誰でも即断即決という行為は可能だと思います。

しかし、自分の利益を最優先し、そのために他者が被る代償にとっては目を瞑るわけですから、当然その行為の結果については他者を含めた集団にとって合理的ではないリスクは高くなるであろうし、またその選択肢についても、ご都合的で場当たり的なものになるリスクも高くなります。
自らの利益のみ想定して行われた即断即決という行為には、一貫性も存在しないし、その当事者の志向性なるものも存在しないのです。

☆即断即決は弱肉強食の動物の生態系における生存ルール

そもそも上記の2つの条件、自分の保身、他者への代償への盲目ということは、実は動物の生態系における弱肉強食の食物連鎖のルールに端を発するものだと思います。

食うか食われるかの動物の生態系の中で、瞬時の判断と行動は、まさしく生き抜くための本能です。襲い掛かってくる外敵に対して、迷いや躊躇、ましてや他の個体の利益を考慮する行為は、自らの命の危険に直結します。

上記の2つの条件を満たした上での即断即決は動物的であり、そうした観点からも、問いと答えの間というものは人間らしさの本質ともいえます。

人間は社会というものを形成する中で、安定的に外敵からの安全を確保し、その中で即断即決の行為だけではなく、様々な知識や学びによってより良い判断や行為を遂行するための余裕を生み出してきたのだと思います。

☆”問いと答えの間”こそ人間の発展における財産

その中で保持されてきた”問いと答えの間”というものこそ、人間社会の発展における財産であり、人間らしさそのものだとも言えます。

今の社会の中で、弱肉強食の世界を反映した即断即決の思想がはびこっているのは、まさしく新自由主義の弱肉強食の価値観がこの世の中を席巻していることの現れではないでしょうか。

私たちは、人間自身の発展の歴史を逆戻りさせるこの新自由主義の弱肉強食の価値観に対抗し、人間らしさを取り戻すためにも、今こそ”問いと答えの間”を大事にしながらこの日常を生きていきたいなって思います。

~Responsibility~(4)

★”容れもの””器”という捉え方の必要性

先の記事【※Responsibility(2)】で、他者からの恩恵について、水を用いて例えて書いたことがありました。

今回の後輩のケースについても、同じく水を用いて表現するのであれば、きっとこの子には、他者からの恩恵という水を溜めておく大きく、しっかりとしたタンクのようなものが心の中にあるんだろうなって思います。
他者からの数々の恩恵をしっかりと忘れずにたくさん心に溜めておけるタンクのような”容れもの”。

そして、その”容れもの”に入った自分色に染められた水は、自分のためだけでなく、水を容れてくれた他者にお返しするためにも使われる。

”タンク”というのは、ちょっと品のない表現だったかもですが、そういう”容れもの”というか、”器”というか、人の内面に対してそうした”器”が存在するという見方って大切なんじゃないかなって私は考えます。

動植物だって、人間だって、生きていくためには”水”というものは絶対不可欠なものだけど、そんな生命だって、自分自身だけで生きていくために必要な水を体内で作り出せるわけではありません。そこには、必ず様々なモノを媒介とした循環構造があり、その過程の中でそれぞれの動植物の中には、水を取り入れ、体内に溜め込む機能が存在し、そして形を変えて排出する。その循環過程の繰り返しがあって初めて生命は維持されるわけです。

人間において、そうした循環が必要なのは”水”だけではなく、様々な恩恵などを媒介とした感情にだって同じことが言えるわけで、そのことを視野に入れるという意味でも、”容れもの”だったり”器”になぞらえた見方は必要なのではないかと思うのです。


★”器”という言葉が示すもの

ここで余談をちょっと加えたいと終わっていきたいと思います。

器といえば、人の能力や容姿なんかを”器”や”器量”という言葉で表現することがありますが、実は多くの人にとって人間に対してそういった”容れもの”で表すことは実は日本でも既に馴染みの深いものなのかもしれません。

ためしに”器量”という言葉をコトバンクで調べてみると、

1 ある事をするのにふさわしい能力や人徳。
2 その人の才徳に対して世間が与える評価。面目。
3 顔だち。容貌 (ようぼう) 。多く、女性についていう。
という風に書いてありました。

1・2については異論はないですが、3の顔だちや容貌については、なぜ器量という言葉がこうした意味をもったのか不思議ですね(笑)。

これまでこの記事で述べてきた通りに、”器量”という言葉を解釈するのであれば、「人の様々な恩恵を心に溜めておける人、またそれを返せる人」という趣旨で解釈するのが私は適当ではないかと思います。

確かに一般的な意味で”器量”のある人、つまりは美人の人の方が、より多くの人から恩恵を受けられるかもしれません。前述の後輩も、一般的な意味でも器量は良かったけれど、外見的な容姿だけ注目して人を評価したりするのは本来的な意味からいっても適切ではないと思うし、評価される本人にとっても失礼な話ではないでしょうか。


★”器のある人”になるために

最後に、”器量のある人”=「人の様々な恩恵などを心に溜めておける人、またそれを返せる人」と定義するのであれば、いったいどのようなことが必要になるのかについて触れたいと思います。

私が今の社会の中で、切実に必要なことだと考えているのは、人の様々な恩恵や支えを受けることは”弱者”とみられる自己責任論的な風潮をぬりかえるような共同の実践が求められているのではないかということです。

巷では、こうした自己責任論が幅を利かせており、人の様々な恩恵や支えを受けることは”恥”とも見られかねない風潮がはびこっており、心の容れものに水を容れてもらうことを自ら拒否してしまう人が多いと思います。

「誰にも頼らず、孤高に生きる」こと。確かに聞こえは良いかもしれませんが、そうした生き方には限界があると思うし、何よりも大変だし、辛い生き方ですよね。

自己責任論の本質を多くの人がつかみ、一人で頑張りすぎてしまうのではなく、ほどよく周りに頼りながら生きていく。そうした共同の営みが究極的には自主的な責任感を持って生きる人の育成にもつながっていくということなのではと私は考えます。

~Responsibility~(3)

【はじめに】

昨年末にこのブログで”responsibility”というテーマの記事を2つ投稿させて頂きました。
年末年始の間に、これに関して一つ書き忘れていたことを思い出したので、今回掲載することにしました。


★Responsibilityという言葉の意味の振り返り

ちょっと時間が空いてしまったので、再度”Responsibility”という言葉の持つ意味を振り返っておきたいと思いますが、

Responsibility=「約束をもってお返しをする能力を持つ者に課せられる、ある種の義務と負担。」

ということで、
①世間一般で考えられている、外部から強制的に背負わされるイメージの「責任」とはかなり異質なものであること。
②本質的に恩恵を受けた人やものに対する自発的な約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであること。

以上、上記の2つの点”Responsibility”(責任)という言葉の持つ本質ではないか。
これらの事が先の記事で触れた内容でした。


★Responsibilityの本質を悟っていた後輩の話

このことで、私が一つ書き忘れていたこと。それは、この”Responsibility”の本質について私が考えるきっかけとなった後輩についてのエピソードです。

その子は私の大学の後輩になるのですが、いわゆるサークルの会合や企画などに対する出欠確認だったり、その他の用事で電話やメールなどで連絡すると、時々返信がなかったりということで、いわゆる世間的に言われている”責任感”では人並みだったと思います。

しかし、その後輩において特徴的だったのが、人から受けた恩恵や支え、励ましなどについては必ずレスポンス(応答)していたということです。

この後輩とは私自身は、そんなに会う機会は多くなかったのですが、たまに仲間内の飲み会とかに参加すると「この前、○○さんに悩みを聞いてもらえて本当によかったです」「□□さんに愚痴を聞いてもらって楽になりました」とそんなことを無数に他の仲間に話をしている場面をよく見かけることがありました。

私自身の経験でも、この後輩と昨年たまたま会う機会があった際に、もう5~6年位前に卒業祝いに送った雑誌のお礼を未だに話してきたこともありました。

このように、本当に人からの恩恵をずっと心の中に留めておいて、事あるたびにそうやってお返しをしてくるような子です。

私自身、その後輩のこういう光景を何度も見てくる中で、この子の中では意識的にか無意識的にかはわからないけど、きっと”責任”というものの本質を捉えていて、どんな場面でどんな相手に対して自分が主体的にレスポンスしていくべきなのかという自身の中のけじめがしっかり確立しているんだろうなと思うようになりました。

「責任感というものは、外部からの強制ではなく、恩恵を受けた人やモノに対する自発的な約束でありけじめ」

私にそのことを明瞭に示してくれたのがこの後輩の姿勢だったのだと思います。


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