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問いと答えの間~続稿~

☆はじめに

「なんだか息苦しいな・・・」
最近、日常生活を送る中で度々心の片隅をよぎる想い。

「私たちはいったいなんのために生きているのか」なんて、青春時代にお決まりのフレーズなんかも頭の中によぎることもある。

「誰もが、生きることに必死なんだろうな・・」って思う。
”生きること”って言うのは、ただ心臓が脈を打って、呼吸をすることに留まらない。だからこそ誰もが生きづらさを感じているんだ。

私は動物になったことはないけど、動物はきっと「私は何のために生きているのか」なんて疑問は抱くことはないだろう。きっと人間だけがそうした疑問を抱き、そして苦しむ。
自らが生きている意味を見出し、それを他者との関係の中で紡ぎ、承認されることなしに、人間というものは本当の意味では生きていけない。

いったいいつから人間はこんなに弱い存在となってしまったのだろう・・・


☆7年前の記事の概要

今から、7年半前に、”問いと答えの間”というテーマで記事を書きました。
(※詳細は下記のURLにて参照。)
http://alter-dairy-of-life.blog.so-net.ne.jp/2009-09-13-16

この記事の詳細についてはふれませんが、一言でいうのであれば、”問いと答えの間”にこそ人間らしさの本質が存在する。そんな内容です。

新自由主義の思想が日常世界を席巻し、スピードと効率を求める価値観が巷に広がる中で、今一度、そうした価値観を是とする考えを再考するきっかけになれば・・。そんな願いを込めて綴った記事でした。

☆スピードと効率がいっそう求められる時代に

あれから7年。

新自由主義の政策の弊害は私たちの生活世界のより深層にまで影響を及ぼすようになりました。

余裕のない日常生活の中で、私たちは生き抜くために、さらなるスピードと効率を要請されるという悪循環に陥っています。

そんな中で、私たちは生き抜くために、本来の意味での”生きる”ということ、そしてその意味を問うことすら見失いつつあるのではないでしょうか。


☆”即断即決”が評価される価値観

新自由主義がはびこる社会の中で、”是”とされるのは、スピードと効率最優先の社会に適応できる価値観と能力を持った存在です。

具体的にはどんな場面においても”即断即決できる”能力を持った人材とでも言えるでしょうか。

何かの物事を遂行する際に、”何故”などと理由を問うことや、悩み戸惑う暇があれば、少しでも物事を前に進めていける存在。そのための強さをもった人材が今求められていると思います。

しかし、そうした”即断即決”というようなスピードと効率を求める価値観を背景に行われる行為というものは、現実的には様々な弊害を内包しているように思われます。

そして、この世の中には、”即断即決”をする能力を持っている人、そして持っていない人の間には明確に評価や待遇などの序列が存在します。
今回の記事では、そのような能力の差というものが実際のところどれだけ存在するものなのか、そしてそれがもし存在しないのであれば、即断即決ができる人とそうでない人の間にはどのような差異が存在するのか、について考えてみたいと思います。

☆即断即決の背景にあるモノ

ます、即断即決できる人とそうでない人。巷だでは頭の回転が速い人ともいわれていますが、その間には本当に大きな能力の差なるものが存在するか否かということです。

私は、ごく一部の人は除き、この世に生を受けているほとんどの人の間には顕著に見える程、そのような能力差なるものは存在しないと考えています。

実は”即断即決できる能力などは、日常の中において大抵の場合は、当事者の頭の回転の善し悪しなどに依拠しておらず、全く別のものに依拠して行われているのではないでしょうか。
私は、以下の条件を満たせれば、誰でも即断即決という行為は可能だと考えています。

①価値基準の明確化

一つ目は、”価値基準の明確化”。要するに、自分にとっての優先順位、判断基準なるものを決めておくということです。

人がなぜ迷い、悩むのか。それはきっと自分のためだけではなく、自分以外の他者の価値観やその背景、意向などを汲み、調整しようとするからだと思います。

もし、自分以外の他者やひいては社会のことなどはお構いなく、自分の利益だけ考えるのであれば、人はどんな場面においてもその選択肢に迷ったりはしないでしょう。

②代償への盲目化

二つ目に、価値基準を明確化(大抵の人は自分自身の利益を最優先とする)することで、必然的に生じる自分以外の他者、社会が被る不利益について目を瞑るということです。

自分自身が自分の利益を最優先にすることで生じる他者への影響などを考えてしまえば、必然的にその判断に迷いやとまどい、葛藤を抱えることとなり、当然即断即決などは夢物語となってしまうからです。

以上、この2点が実現できれば、頭の回転の能力に問わず誰でも即断即決という行為は可能だと思います。

しかし、自分の利益を最優先し、そのために他者が被る代償にとっては目を瞑るわけですから、当然その行為の結果については他者を含めた集団にとって合理的ではないリスクは高くなるであろうし、またその選択肢についても、ご都合的で場当たり的なものになるリスクも高くなります。
自らの利益のみ想定して行われた即断即決という行為には、一貫性も存在しないし、その当事者の志向性なるものも存在しないのです。

☆即断即決は弱肉強食の動物の生態系における生存ルール

そもそも上記の2つの条件、自分の保身、他者への代償への盲目ということは、実は動物の生態系における弱肉強食の食物連鎖のルールに端を発するものだと思います。

食うか食われるかの動物の生態系の中で、瞬時の判断と行動は、まさしく生き抜くための本能です。襲い掛かってくる外敵に対して、迷いや躊躇、ましてや他の個体の利益を考慮する行為は、自らの命の危険に直結します。

上記の2つの条件を満たした上での即断即決は動物的であり、そうした観点からも、問いと答えの間というものは人間らしさの本質ともいえます。

人間は社会というものを形成する中で、安定的に外敵からの安全を確保し、その中で即断即決の行為だけではなく、様々な知識や学びによってより良い判断や行為を遂行するための余裕を生み出してきたのだと思います。

☆”問いと答えの間”こそ人間の発展における財産

その中で保持されてきた”問いと答えの間”というものこそ、人間社会の発展における財産であり、人間らしさそのものだとも言えます。

今の社会の中で、弱肉強食の世界を反映した即断即決の思想がはびこっているのは、まさしく新自由主義の弱肉強食の価値観がこの世の中を席巻していることの現れではないでしょうか。

私たちは、人間自身の発展の歴史を逆戻りさせるこの新自由主義の弱肉強食の価値観に対抗し、人間らしさを取り戻すためにも、今こそ”問いと答えの間”を大事にしながらこの日常を生きていきたいなって思います。
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