~Responsibility~(4)
★”容れもの””器”という捉え方の必要性
先の記事【※Responsibility(2)】で、他者からの恩恵について、水を用いて例えて書いたことがありました。
今回の後輩のケースについても、同じく水を用いて表現するのであれば、きっとこの子には、他者からの恩恵という水を溜めておく大きく、しっかりとしたタンクのようなものが心の中にあるんだろうなって思います。
他者からの数々の恩恵をしっかりと忘れずにたくさん心に溜めておけるタンクのような”容れもの”。
そして、その”容れもの”に入った自分色に染められた水は、自分のためだけでなく、水を容れてくれた他者にお返しするためにも使われる。
”タンク”というのは、ちょっと品のない表現だったかもですが、そういう”容れもの”というか、”器”というか、人の内面に対してそうした”器”が存在するという見方って大切なんじゃないかなって私は考えます。
動植物だって、人間だって、生きていくためには”水”というものは絶対不可欠なものだけど、そんな生命だって、自分自身だけで生きていくために必要な水を体内で作り出せるわけではありません。そこには、必ず様々なモノを媒介とした循環構造があり、その過程の中でそれぞれの動植物の中には、水を取り入れ、体内に溜め込む機能が存在し、そして形を変えて排出する。その循環過程の繰り返しがあって初めて生命は維持されるわけです。
人間において、そうした循環が必要なのは”水”だけではなく、様々な恩恵などを媒介とした感情にだって同じことが言えるわけで、そのことを視野に入れるという意味でも、”容れもの”だったり”器”になぞらえた見方は必要なのではないかと思うのです。
★”器”という言葉が示すもの
ここで余談をちょっと加えたいと終わっていきたいと思います。
器といえば、人の能力や容姿なんかを”器”や”器量”という言葉で表現することがありますが、実は多くの人にとって人間に対してそういった”容れもの”で表すことは実は日本でも既に馴染みの深いものなのかもしれません。
ためしに”器量”という言葉をコトバンクで調べてみると、
1 ある事をするのにふさわしい能力や人徳。
2 その人の才徳に対して世間が与える評価。面目。
3 顔だち。容貌 (ようぼう) 。多く、女性についていう。
という風に書いてありました。
1・2については異論はないですが、3の顔だちや容貌については、なぜ器量という言葉がこうした意味をもったのか不思議ですね(笑)。
これまでこの記事で述べてきた通りに、”器量”という言葉を解釈するのであれば、「人の様々な恩恵を心に溜めておける人、またそれを返せる人」という趣旨で解釈するのが私は適当ではないかと思います。
確かに一般的な意味で”器量”のある人、つまりは美人の人の方が、より多くの人から恩恵を受けられるかもしれません。前述の後輩も、一般的な意味でも器量は良かったけれど、外見的な容姿だけ注目して人を評価したりするのは本来的な意味からいっても適切ではないと思うし、評価される本人にとっても失礼な話ではないでしょうか。
★”器のある人”になるために
最後に、”器量のある人”=「人の様々な恩恵などを心に溜めておける人、またそれを返せる人」と定義するのであれば、いったいどのようなことが必要になるのかについて触れたいと思います。
私が今の社会の中で、切実に必要なことだと考えているのは、人の様々な恩恵や支えを受けることは”弱者”とみられる自己責任論的な風潮をぬりかえるような共同の実践が求められているのではないかということです。
巷では、こうした自己責任論が幅を利かせており、人の様々な恩恵や支えを受けることは”恥”とも見られかねない風潮がはびこっており、心の容れものに水を容れてもらうことを自ら拒否してしまう人が多いと思います。
「誰にも頼らず、孤高に生きる」こと。確かに聞こえは良いかもしれませんが、そうした生き方には限界があると思うし、何よりも大変だし、辛い生き方ですよね。
自己責任論の本質を多くの人がつかみ、一人で頑張りすぎてしまうのではなく、ほどよく周りに頼りながら生きていく。そうした共同の営みが究極的には自主的な責任感を持って生きる人の育成にもつながっていくということなのではと私は考えます。
先の記事【※Responsibility(2)】で、他者からの恩恵について、水を用いて例えて書いたことがありました。
今回の後輩のケースについても、同じく水を用いて表現するのであれば、きっとこの子には、他者からの恩恵という水を溜めておく大きく、しっかりとしたタンクのようなものが心の中にあるんだろうなって思います。
他者からの数々の恩恵をしっかりと忘れずにたくさん心に溜めておけるタンクのような”容れもの”。
そして、その”容れもの”に入った自分色に染められた水は、自分のためだけでなく、水を容れてくれた他者にお返しするためにも使われる。
”タンク”というのは、ちょっと品のない表現だったかもですが、そういう”容れもの”というか、”器”というか、人の内面に対してそうした”器”が存在するという見方って大切なんじゃないかなって私は考えます。
動植物だって、人間だって、生きていくためには”水”というものは絶対不可欠なものだけど、そんな生命だって、自分自身だけで生きていくために必要な水を体内で作り出せるわけではありません。そこには、必ず様々なモノを媒介とした循環構造があり、その過程の中でそれぞれの動植物の中には、水を取り入れ、体内に溜め込む機能が存在し、そして形を変えて排出する。その循環過程の繰り返しがあって初めて生命は維持されるわけです。
人間において、そうした循環が必要なのは”水”だけではなく、様々な恩恵などを媒介とした感情にだって同じことが言えるわけで、そのことを視野に入れるという意味でも、”容れもの”だったり”器”になぞらえた見方は必要なのではないかと思うのです。
★”器”という言葉が示すもの
ここで余談をちょっと加えたいと終わっていきたいと思います。
器といえば、人の能力や容姿なんかを”器”や”器量”という言葉で表現することがありますが、実は多くの人にとって人間に対してそういった”容れもの”で表すことは実は日本でも既に馴染みの深いものなのかもしれません。
ためしに”器量”という言葉をコトバンクで調べてみると、
1 ある事をするのにふさわしい能力や人徳。
2 その人の才徳に対して世間が与える評価。面目。
3 顔だち。容貌 (ようぼう) 。多く、女性についていう。
という風に書いてありました。
1・2については異論はないですが、3の顔だちや容貌については、なぜ器量という言葉がこうした意味をもったのか不思議ですね(笑)。
これまでこの記事で述べてきた通りに、”器量”という言葉を解釈するのであれば、「人の様々な恩恵を心に溜めておける人、またそれを返せる人」という趣旨で解釈するのが私は適当ではないかと思います。
確かに一般的な意味で”器量”のある人、つまりは美人の人の方が、より多くの人から恩恵を受けられるかもしれません。前述の後輩も、一般的な意味でも器量は良かったけれど、外見的な容姿だけ注目して人を評価したりするのは本来的な意味からいっても適切ではないと思うし、評価される本人にとっても失礼な話ではないでしょうか。
★”器のある人”になるために
最後に、”器量のある人”=「人の様々な恩恵などを心に溜めておける人、またそれを返せる人」と定義するのであれば、いったいどのようなことが必要になるのかについて触れたいと思います。
私が今の社会の中で、切実に必要なことだと考えているのは、人の様々な恩恵や支えを受けることは”弱者”とみられる自己責任論的な風潮をぬりかえるような共同の実践が求められているのではないかということです。
巷では、こうした自己責任論が幅を利かせており、人の様々な恩恵や支えを受けることは”恥”とも見られかねない風潮がはびこっており、心の容れものに水を容れてもらうことを自ら拒否してしまう人が多いと思います。
「誰にも頼らず、孤高に生きる」こと。確かに聞こえは良いかもしれませんが、そうした生き方には限界があると思うし、何よりも大変だし、辛い生き方ですよね。
自己責任論の本質を多くの人がつかみ、一人で頑張りすぎてしまうのではなく、ほどよく周りに頼りながら生きていく。そうした共同の営みが究極的には自主的な責任感を持って生きる人の育成にもつながっていくということなのではと私は考えます。
2017-01-07 08:04
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