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未就労者の実態と”意欲の貧困”(2)

こうしたいわゆるグレーゾーンに存在する若者をどう捉えたら良いかについて、「若者の生活と労働世界」(大月書店)で、湯浅誠氏が非常に示唆に富む捉え方を展開しています。
以下、ほとんどこの著書の中の引用となりますが、紹介していきたいと思います。


☆グレーゾーンに存在する若者の実例から

田原俊雄さん(仮名:35歳男性)は湯浅氏の所属するNPO法人自立生活サポートセンターもやいにSOSの電話をかけてきた方の一人です。

田原さんが、生活困窮に至った経緯は、以下の通り。
2006年4月まで半年ほど下町の小さな製造工場で正職員で勤務。しかし4月に風邪をひき、それが長引いて10日程欠勤。連絡は毎日入れていましたが、電話で即日解雇を言い渡されます。その後彼は三ヶ月間、ほぼ毎日ハローワークに通い、三ヶ月の間に産廃処理工場など計4回採用されます。しかし彼はその全てを1日で退職。

話を聞けば、どの仕事も「自分についていけるとは思えなかった」とのこと。ちなみに本人には疾病や障害はなく、いたって健康であったとのことです。


☆運動側が意図的に見落としがちなグレーゾーンの若者たち

「格差」をめぐって、政治家や財界人は「勝ち組」を念頭において「(勝ち組に属する人たちが)努力しても報われない社会はおかしい」といって、格差容認論を展開しています。

一方、それを批判する運動側の人たちは、「負け組」を念頭において、「(負け組の属する人たちだって)努力していないわけではない、機会の平等が確保されていないのが問題だ」と反論します。

一見、上記のそれぞれの主張は、全く正反対の立場のように思えます。
しかし実は、”自分が擁護したいと考える対象者に正当な見返りが与えられていない”という点で、両者の主張は共通しているのです。

このことを念頭においた上で、上記の田原さんのような人を私たちはどう擁護すれば良いのでしょうか。

確実に言えるのは、「働く気はあるが、仕事がない」という理屈はこの場合通用しないことです。では、田原さんに働く気がないかといえば、それも違います。もともと働く気がない人が3ヶ月も毎日ハローワークに通い、1日で辞める仕事に4回もチャレンジするはずがないからです。

そもそも、運動側が格差容認論を批判する根拠としているのは、最初に述べた、「(負け組の人たちだって)努力していないわけじゃない」という点でした。しかし、格差容認論への反論の前提となる”努力をしている”という要件については、4回も仕事を1日で辞めている田原さんのような人々が、世間一般から認められるかといえば、正直困難だと言わざるを得ません。

 運動側の人たちにとって、田原さんのように正直努力をしていると言い難い人たちは、論拠の前提が成り立たないわけですから、実質的に擁護不可能ということになってしまいます。

だからこそ、田原さんのようなグレーゾーンに存在する人たちは、格差容認論を批判する運動側の人たちにとって、”例外”とみなされ、これまでも意図的に見落とされてきたのではないでしょうか。


☆「努力している」「意欲はある」を前提にすることの落とし穴

そして、「みんな努力しているんだ」という擁護の仕方は、他方で田原さんのような人たち当人を追い詰めていってしまうことにもなります。
「テレビに出ていた(腰を痛めてしまったという)人ならしょうがない。でも自分は違う。自分の場合はやはり自分が悪いのだ」・・と。

擁護するためのふるまいだったはずが、現実には擁護したい当の本人たちを追い詰める。”意欲はあるはず””努力している”という反論を前提にしていることが、寝坊したことのある、さぼったの事のある、健康体なのに昼間からぶらぶらしてる本人たちを追い詰めてしまいます。

私たちはあらためて正面から、「家賃も払えず、食べるお金にもこと欠くような生活困窮状態で、それでもせっかく就いた4回の仕事をいずれも1日で辞めてしまう」田原さんのような人たちをも包括するような反論建てを考えなければならないのではないでしょうか。


☆仕事に就くことと成功体験

この本の中で湯浅氏は、そもそも「仕事に就くこと」とはどういうことか?について論じています。
湯浅氏は、新たな仕事に就くとは、「会ったことのない人たちと、使ったことのない機械等を駆使して、やったことのない作業を遂行することであり、かつそれを多くの場合余裕のない人員配置の中で、「空気」をみながら無難にふるまいつつ、徐々に仕事を覚えていくこと」と指摘しています。

しかしだからといって、当然一日で辞めて当たり前とはもちろん言えません。多くの人たちは同様の状況に放り込まれ、最初は「使えない」ことを叱咤され揶揄されながら、それでも人になじみ仕事になじみ、徐々に「戦力」としての地位を確立していっているからです。

ここで言いたいのは、職場に飛び込んだ初日に未経験者でも簡単にこなせる「仕事」などというものはおそらくなく、それゆえ「自分は、いずれこの作業を無難にこなせるようになり、ここの人たちともうまくやっていける」と感じることには実は根拠がなく、それでも多くの人たちはそう信じて、現実にその未知へのダイブを遂行している、という事実が存在するということです。

ではなぜ、多くの人たちは根拠もなく「できるさ」と思えるのかと言えば、それは「やったことがなかったけど、やってみたらできた」という成功体験を生育過程で積んできたからではないでしょうか。その機会は、家庭・地域・学校・以前の職場のどこか、またはその全てで繰り返し提供されてきたはずです。

逆に言えば、そのような機会に恵まれなかった人がどう頑張っても「できるさ」とは到底思えなかったとしても、それほど不思議でも奇妙でも、またありえないことでもないと思います。


☆”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるもの

このような、いわば”意欲の貧困”とは、つまり、自分が限界まで意欲を振り絞ったとしてもそれが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域までに到達できない、という事態なのです。

田原さんにとって「どう考えても自分にはついていけない」と感じてしまうことは、病気で身体が動かないのと同じくらい自分にはどうすることもできない、コントロール不能な事態なのではないかと推測できます。
 そしてそれは、多数者の仕切りと合致しないがために、負の符牒を背負わされて「甘え」や「気合い」の不足といった根性論へと還元されるのです。

しかし、筋力のない人間が何百回「できるはず」と叱咤激励されようとも、やはり石膏ボード4枚をかついで一日中階段を上り下りすることができないように、「意欲の貧困」を抱える者にいくら檄を飛ばそうとも、それによって簡単に「できる」と思えるはずがありません。
彼/女らは、他人から叱咤激励されるまでもなく、その何百倍も、日常的に、自らに対して叱咤激励を飛ばし続けているのであり、そのストレスによる精神の摩耗が「意欲の貧困」をもたらしている面が大きいのです。

そうなれば、もう”意欲の貧困”は自己責任の彼岸にあるものとしかいいようがありません。

このように”意欲の貧困”は、「甘え」や「怠惰」といった次元の、自己責任でどうにかなる問題ではなく、ましてやそのことをバッシングすることでは何も解決はしない、その視点を私たちはしっかり認識しておく必要があるのではないでしょうか。
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