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昨今の日本の”人手不足”の実態(2)

(4)伸び悩む就職数

 ここまでは、離職率の点から見てきましたが、反対に就職率について触れたいと思います。

 下記に紹介したのは、「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)」(※月平均)のここ5年間の数字です。

H25年 月間有効求人数 2,178,634人 就職件数175,659人 就職率33.2% 充足率 21.7%
H29年 月間有効求人数 2,726,327人 就職件数142,882人 就職率33.9% 充足率 14.8%

 上記の数字を見ると、H25年からH29年の5年間の間に、有効求人数は60万人近く増加しているにも関わらず、就職件数は逆に3万人以上減少しており、結果的に就職率はほぼ横ばいの状態となっています。

 有効求人数が増加しているのにも関わらず、なぜ就職件数は減少しているのか。これについては、当然求人における需要と希望のミスマッチの反映ということも考えられます。しかし、いくらミスマッチの実態が存在しているとはいえ、件数の規模を考慮すればやはり、多くの求人において劣悪な労働条件が蔓延しており、その劣悪さゆえに敬遠され、就職数の増加に結び付いていないと考える方が自然だと思います。


(5)難しい人手不足の実態把握

 ①ネット上への大手求人サイトの進出

 以上、有効求人の数字をもとに見てきましたが、一つ注意しておかなければならないこととして、(1)-(5)までに使用した数字は基本的に公共職業安定所(ハローワーク)を介した求人に関する数字だということです。
 現在日本では、インターネットの普及とともに、ネット上での求人サイト(マイナビ・リクナビ等)が求人市場において大きな影響力を持っており、さらにハローワークや大手求人サイトを経由しない求人・求職方法も次々と生まれており、求人・求職方法が複線化してきているという実態があります。

 いずれにせよ、ハローワークを経由しない求人・求職が大幅に増えてきているということには間違いはなく、そのためハローワークでの数字に依拠したこうした統計結果が現在の日本の求人・求職における実情を正しく反映しているかといえば、決してそうではないでしょう。


 ②“カラ求人”の増加
 
 また、ハローワークでの求人数自体もそもそも確実なものとはいえない現状もあります。以前から、いわゆる“カラ求人”と呼ばれる、採用する気はないにも関わらず、ハローワークに求人を出し続けるという実態のない求人も多く見られるからです。

 なぜこのような“カラ求人”が出回っているのかと言えば、企業側が「求人を出していないと会社の景気が悪くみられる」などというような身勝手な理由が挙げられます。また「本当は力のある若い男性が欲しいんだけど、差別になるからとりあえず“誰でも歓迎”」と出しておき、“誰でも歓迎”と言いながら実際はほとんど採用する気はなかったりするような“カラ求人”あります。
 また、これはハローワークの求人だけにとどまらず、大手求人サイトでも、このような”カラ求人”が多く存在します。

 逆に言えば、政府が今のこの”人手不足”と呼ばれる実態をどれだけ実情に近いかたちで正確に把握しているのかということについても疑問を持たざるをえません。


【“人手不足”だからと外国人労働者を受け入れる前にすべきこと】

 このように考えた時に今、政府が“人手不足”と呼ばれる実態に対して改正入管法などの制定よりも先にすべきことがたくさんあるんじゃないかと思います。

 まず一つに、日本の劣悪な労働条件の実態を改善するための努力をすること。劣悪な労働条件の下で安定した雇用が望めず、安定して継続的な雇用が望めず、慢性的な人手不足に陥っていることに対する介入をすべきだと思います。
 
 特に、人手不足と呼ばれる建設・福祉などの産業については、大手ゼネコンが主導するダンピング受注によって中小規模の建設業者が劣悪な条件で現場の職人を働かせなければならないような実態に対して指導することが必要です。
 福祉、特に深刻な介護分野では、国の廉価な介護報酬のため、介護事業所が労働者を劣悪な条件で雇わない限り経営が成り立たない現状があります。介護報酬の引き上げを実施し、介護事業所が安定して雇用を守れる実態を確保していく必要があると思います。

 二つ目に、現在の人手不足の実態を正確に把握するための努力をしていくことです。ハローワークや大手求人サイトでも見られる“カラ求人”をはじめとする悪質な求人に対して適切な指導をしていく必要があります。そのうえで、改めて今の日本の人手不足の実態を把握したうえで、その対応を検討してほしいと思います。

 今回の改正入管法の強行のように、劣悪な労働条件が蔓延した状態で、外国人労働者、ひいてはすべての労働者の中から新たな犠牲者を生まないために力を尽くしてほしいなと心から願います。

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昨今の日本の”人手不足”の実態(1)

【依然として低い日本の有休取得率】

 先日、旅行サイト「エクスペディア・ジャパン」の調査で、日本人の有休取得率が世界19か国中3年連続で最下位になったことが発表されました。それによると、日本のは50%、取得日数は10日ということで、率・日数ともに19か国中最下位だったことも明らかになっています。
 また、有休取得に関して、“上司が積極的ではない”という回答もやはり最下位という結果もあり、改めて国・企業の経営者側がともに、有給休暇取得に対していっそう推進していく立場をとって欲しいなと心から願います。


 【改正入管法と外国人労働者の劣悪な労働条件】

 さて、このように、有休取得率という指標をひとつとっても明らかなように、依然として日本における労働環境というものは総じて劣悪な状態にとどまっています。

 先日、外国人労働者受け入れを拡大する入管法改正案が参議院で強行採決により成立し、来年以降、少なくない外国人労働者が日本に流入する可能性が高くなりました。
 しかし、法案をめぐる審議の中で、ここ8年間のあいだに外国人の技能実習生らが174名も死亡していることなどをはじめ、日本における外国人労働者は、命にも関わるような劣悪な条件で労働を強制されている実態が明らかになりました。

 今回の改正入管法は、こうした外国人の劣悪な労働実態はそのままに、まさに外国人労働者をの人手不足解消の“安上がりな労働力”として利用を目的としていることは明らかです。

 そして、この改正入管法は外国人労働者だけの問題ではなく、ひいては日本人労働者を含めた労働条件の切り下げ競争が今後いっそう進行していくという意味でも、私たち日本人にとっても大きな問題です。決してこうした労働条件の切り下げを許してはならないし、こうした切り崩しに対して声を大にして労働条件の改善を訴えて行く必要があると感じます。

 しかし、安倍首相は臨時国会の閉会における記者会見でも、改正入管法に対し、「国内の中小企業が深刻な人手不足に悩まされている」ことを理由に、改めてその正当性を訴える立場をとっています。
 ”人手不足”と言われるようになり数年が経ちますが、現在の日本において人手不足はどのように、どの程度進行しているのでしょうか。そして、改正入管法の強行採決が、こうした人手不足の処方箋となり得るのでしょうか。改めて検討してみたいと思います。


【日本の“人手不足”の実態】 
(1)人手不足の職種

 最初に検討していきたいのは、いま現在日本において、どのような職種において“人手不足”と言われているのかについてです。

 以下は、厚生労働省の「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)」(平成30年10月度)における「有効求人数」「有効求人倍率」の数字です。(※正規・非正規含む)有効求人数が10万人以上の職種において、有効求人倍率が高い順で、上位5位まで列挙しました。

《職種別有効求人者数/有効求人倍率》

① 介護サービス     有効求人数:234,915人 有効求人倍率:4.18
② 接客・給仕      有効求人数:125,647人 有効求人倍率:3.92
③ 飲食物調理      有効求人数:149,813人 有効求人倍率:3.29
④ 社会福祉専門業務   有効求人数:118,548人 有効求人倍率:3.08
⑤ 商品販売       有効求人数:200,402人 有効求人倍率:2.58

 また、有効求人数が絶対数として少ない業種を含めたうえで、有効求人倍率が最も高い職種は、『建設躯体』が 11.08%で最も高く、次いで多いのが『保安』8.32%、そして、『建築・土木・測量技術者』で5.85%という結果でした。

 これらの結果を鑑みると、福祉・サービス業・建設業などの職種において最も人手不足が深刻化していることがわかります。


(2)どうしてこれらの職種は人手不足なのか?
 
 それでは次に、どうしてこれらの職種は人手不足に陥っているのかという問題についてです。このことを知る一つに指標として以下の指標を見て欲しいと思います。
以下の数字は、厚生労働省の「雇用動向調査・平成29年度版」における産業別の離職率上位3位までを表したものです。

① 宿泊・飲食サービス業  :30.0%
② 生活関連サービス・娯楽業:22.1%
③ サービス業       :18.1%

 このように、特に人手不足に陥っている福祉・サービス業においては全職種の中で最も離職率が高いことがわかります。ここから、いわゆる人手不足、正確にいうと有効求人数と倍率が高いのは、就職した労働者が離職してしまうケースが多い、ということが、大きな要因になっているということがわかります。


(3)どうしてこれらの職種は離職率が高いのか?

 それでは、どうしてこれらくの職種は離職率が高いのでしょうか?
 基本的な視点をあらかじめ抑えておきますと、厚生労働省の「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)平成29年度」によると、“前職の離職理由”で「その他」を除く項目で最も多いのが「より良い条件の仕事を探すため」ということで、全体の19.7%を占めています。

 これは全産業における数字ですが、基本的に昨今、日本で離職する労働者というのは、より良い労働条件を求めて離職される方が多いということがわかります。

 そして、福祉・サービス業についてですが、“労働条件”というキーワードからこれらの産業を見れば、どちらも劣悪な状態で働かれている方々が多い職種だということは一目瞭然です。

 一般的に“福祉労働”と言えば、介護・障害・保育などの分野が思いつきますが、いずれも毎日のように事件や事故が報道されている分野ですね。低く抑えられている介護保険における介護報酬、自立支援法の施設報酬、規制緩和により質・待遇ともに切り崩されている保育など、これらの分野は劣悪な労働条件が高い離職率を生んでいることは間違いがありません。

 またサービス業においては、東京商工リサーチ調査によって、厚生労働省が公表した労働基準関係法令に違反した企業の実態調査(2017年度上半期)において、その労働条件の劣悪さが明らかになっています。
 それによると、労働安全衛生法違反について産業別では、建設業35.0%、製造業22.5%、サービス業20.0%とこの3産業で全体の8割を占めており、サービス業は全体の5分の1を占めていることがわかります。
 また、最低賃金法についてはサービス業は全違反件数のうち37.5%を占め、労働基準法違反については32.6%とそれぞれ全業種中1位の割合を占めています。

 このように、労働関連法についてサービス業の遵守率は極めて悪く、労働実態が悪いことは一目瞭然となっています。

つまり、離職率が高かった、建設業・福祉・サービス業ですが、やはりそれぞれの産業において劣悪な労働条件が放置されており、その過酷さゆえ、離職率が高くなっているということは間違いない事実と言えると思います。

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ネット上で激化するバッシング(追記)

【佐藤あずさ八王子市議と“積極的断筆”】

 先日、社会民主党の八王子市議である佐藤あずさ市議が、SNSの「積極的断筆」を決定し、11/28を最後に更新が停止されました。更新停止については、来年市議を引退されるということで、その公表をめぐって一部メディアとのトラブルがあり、それが主なきっかけとなったようです。

 私自身は、2年程前にTwitterを通じて佐藤市議のことを知り、以降、時折佐藤市議が書かれているブログなどに目を通していました。とてもしっかりとした思想信条に基づいて言葉を書かれていて、なによりE.フロムについて書かれている記事がとても興味深く、今年になってからは私自身も影響を受けてフロムの著作を読み始めていたところでもありました。
 
 それだけに今回の佐市議のSNSの断筆はとても残念に思います。
いったいなぜこのような事態になってしまったのかと思い、更新を停止した11/28前後の佐藤市議のブログを改めて読んでみると、どうやらトラブルは一部メディアとの間だけのものではなかったことがわかりました。


【“市議引退”をめぐってSNSに寄せられた声】

 佐藤市議は11/21のFacebook上で、『任期満了後の引退について』というテーマで改めて引退について語っています。投稿後、続々と「保守」「愛国者」「自民党支持者」と名乗るいわゆる“ネトウヨ”の方々から嫌がらせのメールが届き始め、その一部には極めて悪質なものがあり、刑事告訴したものもあったとのことでした。

 そして私が気になったのは、佐藤市議の元に届いていたメールの中には、こうしたネトウヨからの嫌がらせだけではなく、左派・リベラルを名乗る方からのものも数多くあったということです。

 佐藤市議は自身のSNS上で、実際に寄せられたメールやSNS上の投稿をアップしており、(※佐藤市議が転載を禁じているため、ここには掲載はしませんが)それらを読んでみると、最初は佐藤市議を擁護することを目的としているのかな、と思いつつも途中から“自分語り”もしくは少し配慮が足りない“叱咤激励”になっているのかな・・というような印象を受けました。

 もちろん、全てがそうした配慮の足りないものだとは思いませんが、とかく確かそうなことと言えば、こうした方々は、佐藤市議を擁護することに目的があるわけではなく、自身の人生や希望を佐藤市議に投影している。例えるならば、親が子どもに自分の願望を押しつける状況と酷似しているような印象を受けました。


【SNS上で顕在化する“負の感情”】

 私の前回のブログの記事において、“ネット上で激化するバッシング”というテーマでSNS上におけるバッシングについて書かせていただきましたが、今回の佐藤市議の件もこうしたバッシングが炎上につながった事例の1つだと思います。

 経過をみても、市議引退表明をきっかけとして“ネトウヨからの執拗な嫌がらせ”→“まとめサイトへの転載”→“マスメディアによる拡張作用”といった前回の記事で書かせて頂いた“炎上”の流れがそのまま見られます。
 
 ただし今回は、佐藤市議がマスコミに大々的に報道される前に自身への取材やSNSの更新をシャットアウトしているのでこれ以上の拡大はなさそうですが、いずれにせよ当事者の佐藤市議としては不本意な結果だったと思います。

 そして、前回当ブログにおいて私が投稿した記事の最後に、「バッシングを繰り返すマイノリティの心性には、少なからず私を含む日本の幅広い人たちの間にも共通して存在するものがあるのではないかということです。」と私は書かせていただきました。
 
 正直、この時はそこまで大きな問題意識を持っていたわけではありませんでした。しかし、今回の佐藤市議の件において、左派・リベラルも含めて幅広い思想信条を持つ方からも“お説教”に似た投稿がみられたことからも、私はこうしたSNS上でのバッシングに類する言葉の背景には何かとても大きな“負の感情”が渦巻いているのではないかという思いを強くしました。
 

 【誰もが心に抱く“負の感情”?そしてそれを生み出す構造

 前回の記事で指摘したように、ネット上での“炎上”は、確かに最初は一部のネトウヨなどのマイノリティが執拗に嫌がらせの書き込みを繰り返し、ネットメディア・マスメディアによって事が拡張され“炎上”に発展するのかもしれません。

 しかし、事は本当に一部のネトウヨなどのマイノリティやネット・マスメディアだけの問題なのでしょうか。私たちが日々行っているSNSへの投稿、それらは本当に純粋な他者や社会、そして自身の人生をより豊かにするためのものとなっているでしょうか。
 
 私たちが日々抱えている満たされない思い、そうした“負の感情”の発露の場としてSNSが存在していないでしょうか。

 とはいえ、私がここで訴えたいのは、「一人ひとりが気をつけよう」というような月並みな、自己啓発的な回答ではありません。

 もし、一部のネトウヨなどのマイノリティだけでなく、私たち自身も含めて、バッシングに類する書き込みをする動機が、そうした“負の感情”の発露に由来するものであるとするならば、本当に問われなければならないのは、なぜ私たちはそうした“負の感情”を抱くのか、そしてなぜそのはけ口をネット上での他者に向けてしまうのか、ということを社会構造的にも一人ひとりの心象からも探っていくことなのだと思います。
 

 【さらなる犠牲者を生まないために・・】
 
 私がこの間、本当に残念でならないのは、ネット上でのバッシングや炎上によって各分野の数多くの有能な方々が、そのあゆみを止めざるをえない状況に追い込まれているということです。対象となってしまった当事者にとってはどれだけ辛い経験であろうかという思いはもちろん、この社会のそれぞれの関わる分野にとってもどれだけの損失であろうかとも思うのです。

 私が本当に見たいのは、人と人との争いや足の引っ張り合いではありません。本当に見たいのは、この世の中や各人に潜在する、他者や社会、そして各人自身をより豊かにするような能力の発現です。それはきっと誰もが心の奥底では願っていることなのではないでしょうか。
 
 これ以上、ネット上での不毛な争いでさらなる犠牲者を生まないためにも、私たち一人ひとりがこうした構造について冷静に分析していく必要があるのではないかと思います。


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ネット上で激化するバッシング(2)

☆“マイノリティ”がネットでの炎上を引き起こしている

 そして、このようにネット上でバッシングを繰り返す、いわゆる“炎上”を引き起こすきっかけを作る書き込みをしている人たち、いわゆる“仕掛け人”ともいえる存在は、どの程度の規模で存在しているのでしょうか。

 日経ビジネスオンライン2016年12月13日付の「ネット炎上、仕掛け人『0.5%』の正体-」(国際大学・山口真一氏へのインタビュー)というタイトルの記事の中で、山口氏は「炎上に絡んで書き込みをした人の数は、ネットユーザー全体の約0.5%、200人に一人しかいない。」ということを指摘しています。

 これはとても興味深い指摘で、もし山口氏の調査の結果を信用するならば、2018年現在、ネットユーザーはおよそ1億人、SNSの利用者数はその約7割と言われ、7000万人程度存在すると言われているので、その0.5%が仕掛け人とすると、約35万人程度の仕掛け人がいると推測されることになります。
 35万人というと、かなり多いような気がしますが、日本の総人口比でいうと、約0.3%でしかありません。たった0.3%しか存在しないマイノリティが連日、ネット上、ひいては大手マスコミも取り上げるまでに世間を騒がしているという奇妙な出来事が今現実として日本社会において起こってしまっているわけです。


☆マイノリティの主張が幅を利かせてしまっている構造

 それでは、いったいなぜ、こうしたマイノリティの主張が日本社会を騒がすまでの影響力を発揮してしまっているのでしょうか。
先に紹介した山口真一氏は同記事で下記のように述べています。

『よくあるのが、まずツイッターで投稿された炎上の種を見つけた人が、それを否定的に拡散するケースです。拡散されていくうちに、それに対する書き込みを10回も20回も繰り返す「ヘビーユーザー」が現れて、一気にその炎上が大きく見えてくる。・・・今度はそれをPV(ページビュー)数を稼ぐためにまとめる「まとめサイト」が出てきたり、ネットメディアが取り上げたりする。まとめサイトが取り上げる段階で拡散の威力は相当に高くなるのですが、最後にとどめとしてマスメディアが報道します。そうすると、ネットにそこまで精通していない人々や高齢者までがその事件や問題を知ることになるという流れです。』

 このように、ネット上のマイノリティが炎上の種を何度も書きこむ事に端を発し、→ネットメディア→マスメディアといった流れで、最初は小さな炎上だったものが、実態以上に大きくなってしまう構造が出来てしまっているという背景があるのです。
 そういう意味では、「ネット上の炎上問題を必要以上に取り上げている、そしてそれを大げさに報道することに加担していしまっている」マスメディアの姿勢にも大きな要因があるように思われます。


☆バッシング自体を目的化するマイノリティの本質

 また、山口真一氏は現代ビジネス・2018年11月12日『大規模調査でわかった、ネットに「極論」ばかり出回る本当の理由』において、2018年4月に実施したオンライン調査において、憲法改正において、少数派である両極端な意見の持ち主が、中庸の意見を持つ人たちの数倍もSNSへの書き込みを行っているという調査結果を明らかにしています。
 
 この調査結果をふまえると、炎上の種を何度も書き込むネット上のマイノリティは、極端な主張を持っており、その極端な主張がめくりめくってマスメディアで取り上げられることで、あたかもその主張自体が日本社会の世論の一角を占めている風に見えてしまっているという状況があるのかもしれません。

 そしてここからは私の推論となりますが、こうした極端な主張を持つマイノリティは、ネトウヨのように、自らの系統だった思想体系を持っているわけではないと思います。系統だった思想体系をもっていないからこそ、書き込みは結果的に感情的であったり、誹謗中傷・罵詈雑言といった形で現れるのではないでしょうか。

 そうつまり、今もなお安田純平さんらに対して行われている過激なバッシングの仕掛け人ともいえるのはまさに、この自らの系統だった思想体系を持たず、かつ極端な主張を持ち、さらにバッシングすることを目的とするマイノリティの人たちそのものなのだと思います。


☆終わりに-不毛な炎上をなくしていくために・・・-

 最後に、ここまでの私の検討についてまとめると、現在安田純平さんなどの例にみられるネット上のバッシング・炎上は年々激しさを増しており、その主要な要因は、自らの思想体系を持たない極端な主張を持つマイノリティが、バッシング自体を目的として日々書き込みを繰り返していることに端を発しており、マスメディアが結果的にそれを後押しするような形で問題を大きくしてしまっている、ということでした。
 こうした背景をもとに、私としては3つのことを最後に指摘したいと思います。

まず一つ目に、マスメディアの在り方についてです。先にも述べたように、今のマスメディア、特にテレビ報道についてですが、ネット上での炎上そのままに取り上げ報道することが多すぎます。時にはSNS上でもコメントをそのまま紹介することもあり、ネット上での書き込みが実社会の世論と大きく乖離している危険性にもう少し注意を払ってほしいと思います。

 二つ目に、ネット上でのバッシングの書き込みについての対応です。系統立たない極端な主張を持ったマイノリティが、誹謗中傷などのバッシング自体を目的とし書き込みをしていると考えると、バッシングされている対象を擁護する人たちは、良心的に反論されていると思うのですが、中にはバッシングする側と同じように感情的になって、過激な言葉で罵詈雑言ともいえる書き込みをされている方が散見されます。
 安田純平さんに対するバッシングに対して擁護したダルビッシュ有さんの理路整然とした落ち着いた書き込みについて多くの人の称賛が寄せられましたが、擁護する側としても誹謗中傷が目的にならないような書き込みをしてほしいと思います。

 最後三つ目に、これは私自身に対して課す課題でもあるのですが、バッシングを繰り返すマイノリティがなぜそのようなことを繰り返すのかということへの検討です。
私の中でもまだこの理由についてははっきりとして考えが持てていないので、この場での検討は避けますが、非常に重要な問題だと思います。

 今回の記事の内容と矛盾するようですが、バッシングを繰り返すマイノリティの心性には、少なからず私を含む日本の幅広い人たちの間にも共通して存在するものがあるのではないかということです。
 私自身、ネット上での過激なバッシングの書き込みを見ると時々、反射的に同じく過激な言葉でその書き込みについて非難したくなったりすることがあります。いったいこの心性は何に由来するのでしょう。

 ネット上ではいまもなお日々、炎上事例が相次いでいるわけですが、その火種は一部のマイノリティに起因するものだとしても、それが増幅しているのはマスメディアのせいだけではないのかもしれません。
 私たち一人ひとりがマイノリティに無意識的に事を大きくする誘導されて、事を大きくする手助けをしているのかもしれませんし、もしかしたら、私たち自身がマイノリティに依存して、自ら望んで過激なコメントをし返しているのかもしれません。

 いずれにせよ、ネット上でバッシングを繰り返すその心性を理解することは、日々起こっている無用な炎上を鎮静化し、傷つく必要のない人たちを傷つけている現状を変革していることにつながるはずです。
 
 ことは一部のマイノリティに対してどう対応していくかという問題ではありません。私たちみんなが理不尽で不毛な現状から解放されるためにも、今後も検討を続けていきたいと思います。

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ネット上で激化するバッシング(1)

☆はじめに~年々激しさを増すネット上での誹謗中傷のバッシング~

 先日、シリアの武力勢力に拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さんが無事解放されるという出来事がありました。実に3年4か月もの間、人質として拘束されていた安田さん。拘束中には、兵士に銃を突きつけられている姿などがインターネット上に映像として流れたこともあり、多くの人がその身を案じていましたが、無事日本に戻ってきてくれてとても嬉しく思います。

 しかし日本国内での、安田さんが解放され帰国したことに対する反応は、決して歓迎の声だけではありませんでした。

「身代金は働いて返せよクソ野郎」「シリアに帰れ」など、帰国後の安田さんに待ち受けていたのは、思わず目を覆いたくなるような過激なバッシングの嵐でした。数多くの著名人や知識人が報道番組などで安田さんを非難する発言を繰り返し、そして何よりネット上では安田さんへの心ない誹謗中傷のバッシングの書き込み数多くがされ、連日炎上するような状態となりました。

 思えば、こうしたなネット上での過激なバッシングの書き込みというものは年々激しさを増しているような印象を受けます。一体今回の安田さんの件に見られるような過激な書き込みというものはなぜ起きてしまうのか、今回はその一端について触れていきたいと思います。


☆ネット上での“炎上”件数の急増

 それにしても、こうしたネット上でのバッシングといったものは一体いつぐらいからはじまり、どのくらいの規模で増えているのでしょうか。今回私はそのことを知るために“炎上”というワードを指標にして検討していきたいと思います。


[炎上]・・・(比喩的に)インターネット上のブログなどでの失言に対し、非難や中傷の投稿が多数届くこと。また、非難が集中してそのサイトが閉鎖に追い込まれること。(デジタル大辞典・小学館)


“炎上”とは上記の通り、ネット上で、特定の対象に対して非難や中傷が集中することを意味します。したがって、この“炎上”というワードがいつ生まれ、近年どれくらいの頻度で発生しているかがわかれば、ネット上でのバッシングの傾向について知ることができるからです。

 まず、最初に見て頂きたいのが、下記の統計資料です。
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc242210.html
 これは、総務省が発表した『情報通信白書』(平成27年度版)ですが、図表4-2-2-1『新聞記事データベースにおけるSNS炎上関連記事件数の推移』を見ていただくと、2004年に初めて新聞記事として“炎上”という用語が登場し、以後、変動はありますが経年的に増加していることは明らかです。

 また、『レピュ研』(ネット上の評判・風評などのリスクに対して研究する機関)の発表による2017年の炎上件数は1086件とされ、毎日なにかしらの炎上事例が発生するまでになっていることがわかります。
(『年間炎上件数の推移』レピュ研/https://repyuken.com/news/2018-4-5-enjo_report2017

 ところで、“炎上”というワードが世に出始めたとされる2004年と言えば、Facebook、ameba、Gree、mixiなどの今も代表的なSNSのサービスが開始された年でもあります。こうしたツールとその利用者の急激な増加が、“炎上”が急激に増加することになった一つの要因として考えて間違いはないでしょう。

 いずれにせよ、ここ数年で、“炎上”件数は急激に増大してきているのは明らかです。


☆安田さんの事例からみる、バッシングの書き込みの特徴

 こうした“炎上”件数の増加に見られるように、ネット上での誹謗中傷のバッシングが過熱化していることは明らかですが、具体的にはどのような書き込みがされているのでしょうか。冒頭で紹介した安田純平さんのケースで見ていきたいと思います。

 差し当って、Twitterで、11/12時点で書き込みがされていた安田純平さんについてのバッシングについて書き込みを拾ってみました。

・『政府が行ってはいけないと 止めるのも聞かず、 勝手に行き、拉致されたから 助けて下さいなんて ようも言えたもんだ!』

・『おいおい安田純平はまだシリア行かねぇのかよ 早く行ってこいよ』

・『安田純平さんがテロリストにされていた嫌がらせ、ショボすぎるwwww』

・『安田純平さん、はやく身代金返してください』

・『安田純平氏の目的は、自らが人質になることによって、 日本国政府の活動を妨害する反日活動にあるんじゃないか? 彼の出自からすれば、納得できる目的だ。』

・『現実に彼がやったことは、イラクでは日本国政府の行動を妨害するために、イラク軍に志願して協力して人質になった。 シリアでは入国直後に人質に』

というように、解放から10日程経過した今でも、わずか1時間程度の間にこのような辛辣な書き込みが何件もUPされています。

 私がこうしたバッシングの書き込みから受ける印象は、『感情的で短絡的』『根拠が乏しい』『バッシング自体が目的化している』などという特徴です。
 
 この世の中には人それぞれ様々な考え方がありますが、こうしたバッシングとして書き込みがされている書き込みのほとんどが、少し考えれば容易におかしいと思う程度の内容ですし、そもそも何を訴えたいのかが不明瞭であることからも、“バッシングすること自体が目的化している”という私の考えは、近からずとしてもそう遠くないのではと思います。


☆ネット上でのバッシングの先駆けとしての“ネトウヨ”

 そして、こうしたネット上でのバッシングの書き込みをする人自体の特徴を検討するために、また一つ“ネトウヨ”というワードを指標にして考えて行きたいと思います。

 そもそもネット上でのこうしたバッシングが問題として出始めた際、その仕掛け人として一番最初に、世間に広く認知されたのがいわゆる“ネトウヨ”(ネット右翼)”と呼ばれる人たちでした。

 デジタル大辞泉では、ネトウヨ(ネット右翼)=「インターネットの掲示板2chやブログ上で、保守的、国粋主義的な意見を発表する人たち。」と紹介がされていますが、実際のところ、保守本流や右翼団体の当事者の認識としては、

「彼らは保守思想にすらコミットしていないと思います。左翼が言っていることが気に入らないという「反左翼」という意識だけではないか」(中島岳志)

「ネトウヨにはある種の反知性主義としか言いようのない、下品な言葉遣い、他人に対する誹謗中傷、罵詈雑言(ばりぞうごん)がある」(西部邁)
(『AERA.dot/ネトウヨと保守、右翼は何がどう違うのか』より)

というように、ネトウヨの人たちは、保守や右翼の当事者から距離を置かれているというのが現状です。

 加えて、ネトウヨに対する評価としては、
『ネット右翼とは、「感情論」としての嫌韓(嫌在日コリアン)・反中、及び既存のマスコミへの呪詛が辛うじて一本の支柱として存在するものの、それ以外——いやむしろ、それを含めて——自前の理論や理屈、言葉を持たぬ人々のことを指すのである。彼らは自前の理論や理屈を持たないからこそ、保守系言論人や文化人に「寄生」するしかないのだ。』
(『現代ビジネス2017.8.18<ネット右翼十五年史>なぜ、彼らは差別的言説を垂れ流すのか』古谷経衝より)

というように、“ネトウヨ”と呼ばれる人たちは、実際に「保守などの思想体系があるわけではなく、感情的に誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返す自前の理論や理屈、言葉を持たない存在」として知識人・保守・右翼団体から認識されているわけです。

 このように、ネトウヨの、思想体系を持たず、感情的にバッシング行為を繰り返すといった特徴は、安田純平さんにバッシングの書き込みをする人たちにも共通してみることができます。
 
 もし、安田純平さんの件をはじめ、昨今ネット上でバッシングを人たちが、こうした思想体系を持たず、感情的に誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返しているのだとすれば、思想体系を持たないだけに、そのバッシングは必然的にバッシング自体を目的としていることになりますし、誰でも攻撃対象になり得るということです。

 つまり、今ネット上でバッシングを繰り返している人たちは、バッシング自体を目的とし、日々攻撃対象を求めてネット上を彷徨っているということになります。それはまるで、一般のネットユーザーにとってはゲリラの巣くうジャングルの中に取り残されたようなもの、と言えるのかもしれません。




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バナナマン日村勇紀氏のスキャンダルについて(3)

3、 今後、日村氏にとって求められる対応について

(1)一刻も早く求められる行為への謝罪 

 この記事を書いている10月の時点で、すでに日村氏はTVやラジオの生出演の場で「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と、事実を認め謝罪の言葉を口にしています。
しかし、週刊誌の記事についてどこまでが本当なのか、そして被害者女性に対しての謝罪については明確には口にしてはいません。マスコミ報道も今回のスキャンダルについては既に鎮静化に向かっており、日村氏の処分についても全く何もされていない状況です。

 今後の事件の対応については、事実が本当なのであれば、被害者女性の快復を第一に考えて行われるべきだと思いますし、第一歩として、被害者女性への正式な謝罪こそがまず求められるべきだと思います。
 日村氏が自らの加害行為に対したしっかりと謝罪もせず、これまで通り何事もなく仕事を継続するのであれば、被害者女性にとっては事件の行為が世間から正当化されたように感じるでしょうし、全ての性犯罪被害者の傷をえぐることにもつながりかねません。

さらに、現在日村氏は乃木坂46という未成年の女の子も含むアイドルグループの“公式お兄ちゃん”としても活動をしているわけですが、信頼し共に活動してきた“お兄ちゃん”が実は未成年女性への淫行の加害者だったと知って、その衝撃はとても大きかったと思います。
日村氏が事件を起こしたことで一番罪深いことは、こうした未成年を含む全ての人間の安全と安心、信頼を損ねてしまったという事実なのではないでしょうか。

 
(2)日村氏にとっての唯一の生き残る道

 この現在の状況を日村氏が唯一改善できる道があるとするならば、“事件が16年前のもの”というその1点に尽きると思います。

 繰り返しになりますが、事件から16年が経過しているとはいえ、既に時効が過ぎ刑事罰の対象にはならないにせよ、日村氏が被害者の女性に犯した罪は何ら変わってはいないのです。
 しかし、もし日村氏がこの事件についてしっかりと謝罪をしたうえで、“16年前の自分と現在の自分は違う”という姿を世間に見せられるのであれば、日村氏の処遇といった点では改善される余地があると考えます。
 日村氏がこの16年の間に、過去の加害行為を悔い、決して同様な行為を犯さないと今現在考えており、今回の件についてもきっちりと被害者女性に謝罪をし、今後も適切な対応をとっていくと考えているのであれば、このまま仕事を継続していくことも世間的に容認されるかもしれません。

 日村氏がこの16年の間に、変化しているか否かについてはわかりません。しかし先程、乃木坂46の公式お兄ちゃんの話を出しましたが、バナナマンが乃木坂46の冠番組で司会を務める形で共演することになってから7年が経過しています。
 被害者の女性と同じ、未成年の女の子を含むアイドルの子たちが、懸命になって成長する姿を“公式お兄ちゃん”という形で目の当たりにする中で、いかに彼女らの存在が尊いかということについて実感させられたのではないでしょうか。
 そうした経験を経てきた現在の日村氏が16年前の日村氏とは違う存在になっているということに心から期待したいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=OgD82WcmskI


(3)性犯罪をなくしていくために私たちができること

 そして、最後に私が述べておきたいのは、今回の問題は決して日村氏と被害者女性の関係だけに還元してよい問題ではないということです。

前のブログで紹介させていただいた、森田ゆり氏の性犯罪者の加害動機のところで、性犯罪というものは社会的・文化的環境に影響することが指摘されていました。
 日村氏が16年前に犯行に及んでしまった過程には、この社会における、例えば“ポルノの氾濫”、“男は強くあれ”という伝統的な価値観、“性犯罪の本質についての無理解”などなどの社会通念や環境が影響していたことは間違いないと考えます。

 私たちは、本当に性犯罪をなくしていくためには、こうした社会通念や環境を少しずつでも変えていく必要があるわけですが、とはいえ、長く広く蔓延していまっているこうしたものを一朝一夕で変えていくことはできません。
だからこそ、今回私がいまここで提案したいのは、まず“被害者へのバッシングをやめよう”というこ とです。
先に述べたように、性犯罪被害者に対してのバッシングというもとは、その傷をえぐるような非常に悪質な行為です。また、バッシングをすることで、そのこと自体が性犯罪を肯定することにつながりかねないこともあり、一刻も早くやめる必要があると思います。
  
 そして何より、こうしたバッシング行為の背景にも、前のブログで紹介したキル・マーティン教授の「悪い行動は、自らがパワーレスであることへの防御反応だ」という側面が含まれているのではないでしょうか。バッシングを加えることで、対象を貶め、自らの情緒的・精神的欲求を充足する。もし本当にそういう背景があるのであれば、バッシング行為自体も性犯罪と何ら変わらず悪行であり、その横行を許したままにするのであれば、世の中は悪行がさらなる悪行を生む負のスパイラルに陥るだけです。

 だからこそ、今回の日村氏の問題は私たち全体で考えて行かなければいけない問題だと私は考えます。改めて、今回の件で日村氏は被害者に対して真摯に謝罪をし、私たち自身が同様な事件を起こさないために、性犯罪の温床ともなるこの社会通念・環境について問題意識を持ち、認識を変えていこうとする人が一人でも増えることを心から願っています。





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バナナマン日村勇紀氏のスキャンダルについて(2)

2、 性犯罪の本質について

1で述べたように、未成年への淫行という重大な犯罪行為であるにも関わらず、加害者を擁護し、被害者にバッシングを加えるという逆転現象が起きてしまうのはいったいなぜなのか。私はその一つの理由に、現在の日本において性犯罪の本質に対する市民の認識不足があると考えます。この章では、性犯罪の本質、特に被害者に対してどれだけ深い傷を負わせる行為なのか、そしてこのような卑劣な行為が起きてしまう原因についても簡単に触れたいと思います。


(1)性犯罪によって被害者が被る傷

 まずは、性犯罪というものが被害者にどのような傷を負わせるものなのかということについてです。これは、実際に被害者の手記を読んでもらうのが一番だと思います。ということで、1997年11月に実際に起きた集団レイプ事件の被害者の手記についての記事を読んでいただきたいと思います。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20180501-00084681/

すでに事件から20年が経過していますが、被害者の女性はいまだに当時の傷に苦しめられています。

事件後、不眠、震え、記憶喪失、自殺未遂、集中力の低下、不明熱、リストカット、頭痛、吐き気、胃痛、耳鳴り、精神不安定、自尊心の低下と、列挙すればきりがなく、当事者の辛さを想像するのは非常に難しく、文章にするものためらわれる思いです。
「性犯罪は魂を犯す」と言われますが、まさしく20年前の事件の日に、この被害者の女性は“魂を侵された”のだと思います。


(2)性犯罪後も受ける被害者の傷(二次受傷)

 そしてもう一つ、性犯罪被害者にとって恐ろしいのが“二次受傷”と言われる、事件後の周囲の人々によって傷つけられる行為です。
 このことについて、臨床心理士の山田ゆりさんが、NEWSSALT編集部のインタビューに答えるかたちで指摘しています。

https://www.newssalt.com/27107

「性別を問わず性被害に遭った人たちは、それについて語ることに二重の障壁を感じていると思います。性的な被害に遭うということは、その人の尊厳や自尊心を踏みにじられることにほかなりません。このため、被害者が屈辱感、恥辱感を感じてしまい、『自分自身が汚された、傷ものになった』という感覚が生じて、自分自身を恥ずべきものだと思ってしまいます。これが第一の障壁であると言えます。

 そして二つ目の障壁となるものが、被害者が社会からも実際にそのように見られているという点にあります。そのことを被害者もわかっていますから、性被害に遭ったと訴え出ることで、自分自身が被害者であるにも関わらず、社会から非難を浴びることへの恐怖が存在するのです。

 そして『被害者に非があった』という非難は、見知らぬ他人からだけでなく、身近な家族や友人からさえも受けることがあります。これは”二次被害”や”セカンドレイプ”と呼ばれるもので、被害によって傷ついている被害者の心情をさらに傷つけることになります。被害者は自分を悪いもの、無力なものと感じ、自己否定し、絶望感から死にたいとさえ考えるようになってしまいます。」


 上記の山田氏の指摘の通り、性被害者は事件の行為自体で深く傷つけられるだけではなく、事件後も、周囲の誤解や偏見によってさらに傷口をえぐられるような体験を負わされるということが実際に起こっているのです。

 基本的に、被害者にはこうした二重の苦しみがあるのだという認識があれば、当該被害者に対してバッシングをしようと考える人はまずいないでしょう。

 だからこそ今回の日村スキャンダルの件でも被害者の女性をバッシングしている人たちは、性犯罪被害者のこうした事件による深い傷、そしてバッシングによる二次受傷によって、いっそうその傷がさらに深くなるといった認識が基本的に不足しているのではないでしょうか。


(3)性犯罪の加害要因について

それにしても、そもそも日村氏はなぜこのような行為に及んでしまったのでしょうか。

『子どもへの性的虐待』(岩波新書・2008年)において、著者の森田ゆり氏は子どもへの性加害者の動機として3つ挙げています。

①情緒的癒着欲求・・・この要素の典型的な例は、自分の強さ、他者への支配力を確認したい欲求。(性関係において男は強く支配的であれという社会通念に影響される)

②性的刺激・・・こどもと性的に関わることが身体的欲求を満たす。(情緒的・精神的な欲求を性行為によって満たそうとする男性に多くみられるこの動機は、子どもポルノの氾濫などにみられる社会的・文化的環境に影響される。)

③阻害・・・子どもしか性的満足を得られる対象がない。(例えば成人女性と対等に人間関係を持てない男性)

 上記の3つの点で重要なのは、性犯罪というものは、性欲を満たす目的だけで起こることとは限らず、加害者の情緒的・精神的欲求を満たす“手段”としても行われることがあるということです。

 また、2018年2月6日付のウオールストリートジャーナルでは、「(性犯罪に関わる)悪い行動は、自らがパワーレスであることに対する防御反応だ」というタイトルで、メアリーワシントン大学のキル・マーティン教授の言葉を下記の通り紹介しています。

「権力というものは男性が女性を不適切に扱う機会を創り出すことがある。だが、そうした機会を利用しようとする男たちのなかには、過去にパワーレス(無力)だと感じていたが、その後に突然権力を得たという人がいた。研究によると、この種の男性は、自分に権力が足りないと慢性的に思い続けてきた人であって、職場で不適切な注目を浴びようとしたり、ハラスメント(嫌がらせ)的な行為をしたりする公算が極めて大きかったという。」

 つまり、それまでの人生において“パワーレス”と感じていた加害者が、自身の有力感を得るために、性犯罪行為を行い、被害者を支配する。ということをキル・マーティン氏はここで指摘しているのだと思います。

 私はこのキル・マーティン氏の「パワーレスであることの防御反応」という指摘こそが日村氏のケースにおいて重要な視点であると考えています。16年前といえば、バナナマンがちょうど全国ネットにも出演しはじめ注目と人気が上昇し始めた時期と重なります。

 高校時代はテニス部のキャプテンや生徒会長などを務め、女性にも人気だった日村氏が、芸能界入り後、初めて組んだ相方とのコンビ解消、体形をはじめとする容姿の変化、バナナマン結成後10年程度の不遇の時期を過ごし、時にはブサイク芸人などと揶揄される中で、自尊心が損なわれ、無力感に囚われつつあったのではないでしょうか。

上記の森田氏の挙げた加害要因の一つに”情緒的・精神的欲求”がありましたが、日村氏にとって16年前の事件は、こうした自身の”パワーレスであった状態の解消”、そして具体的には不遇の時代に失った自尊心などのまさしく”情緒的・精神的欲求の埋め合わせ”という目的があったのかもしれません。


とはいえ、これは私の想像でしかないわけで、実際のところ日村氏が実際にどのような理由でこうした行為に及んだのかはわかりませんが、たとえ日村氏自身がそれまでの人生でパワーレスにならざるを得ない、何かしらの同情すべき要素があったとしても、日村氏の行った行為が許されないことであることには変わりはありません。


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バナナマン日村勇紀氏のスキャンダルについて(1)

0、 はじめに

 先日、お笑いタレントであるバナナマンの日村勇紀氏が、9/21付の「フライデー」において、16年前に当時16歳の少女に淫行を行ったというスキャンダルが報道されました。
 
 フライデーによる暴露後、各方面で様々な議論を呼んでいる本問題ですが、この間のマスコミ・SNSでの反応をみていると、淫行をはじめとする“性犯罪に対する基本的な視点”がずれているのでは?と思わざるを得ない意見が多数飛び交っていることに違和感を覚えます。

 今回この記事において、改めて性犯罪というものがいったいどういう性質の問題で、特に被害者に対してどのような影響を与えるものなのかという点にふれたうえで、今後日村さんがとるべき態度と行動について、検討していきたいと思います。


1、 事件の全貌について

まずはじめに、今回のスキャンダルの全貌がどのようなものなのかについて触れていきたいと思います。

(1)フライデーに掲載された記事
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「あの人のことは、いまでも許せません。16歳だった私を自分の都合で振り回して、肉体関係まで持って……。私自身が年齢を重ねた現在(いま)だからこそ、彼の行いは許されないものだとわかります。テレビに出ている彼の顔を見るたび、辛い過去を思い出してしまうんです」

 こう本誌に告発するのは、愛知県に住む32歳の河野綾香さん(仮名)だ。
 告発の相手は、お笑いコンビ『バナナマン』の日村勇紀(46)。なんと日村は過去、16歳の少女に淫行をはたらいていたというのだ。

 二人が初めて会ったのは名古屋の繁華街・栄。そのまま手羽先屋へ向かった。そこで日村は綾香さんに飲酒をすすめてきたという。
「店に着くなり、日村さんから『お酒飲む?』と聞かれて、断れなくて。私がすぐ酔っぱらってしまったので、1時間ほどで近くのビジネスホテルへ向かったんです。部屋に入ると、『一緒に寝ようよ』と言われて。寝転ぶ日村さんの上に乗せられて、キスやフェラをさせられました。挿入のときもゴムをつけてくれず、当たり前のようにナマでしてきた。私も突っぱねて嫌われたくなくて……。受け入れるしかなかったんです」
 その後、絢香さんは東京に引っ越し、日村の家に入り浸るようになるが、セフレのような関係が続くことに。

 本誌は9月中旬、都内の高級マンションから愛車の「ポルシェ911」を駆って番組収録へと向かう日村を直撃した。
――日村さん、河野綾香さんとの関係についてうかがいたいのですが。
「ずいぶん前のことですね……」
――当時16歳だった綾香さんと肉体関係もあり、日村さんは彼女の年齢も知っていたということですが。
「ごめんなさい、わからないです。覚えてないですね。マジですかこれは……。参りましたね」
 その後、日村からは所属事務所を通じ、自らの行いを認め、謝罪するコメントが送られてきた。
 9月21日発売のFRIDAYでは、日村と被害女性のツーショット写真をはじめ淫行の証拠写真を公開。二人の関係についてもさらに詳しく報じている。また日村への直撃取材の様子も掲載している。

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上記の記事は、フライデーが出自の9/21付のライブドアニュースの全文です。

事件の概要については上記の記事に掲載されているとおりですが、なぜ16年前の問題が今頃になって暴露されたかについては語られていません。憶測としては、今年4月に日村さんが結婚し、被害者の女性が「自分は今でも当時の経験に苦しめられているのにあの人は自分ばかり幸せそうに・・」という思いが、今頃になっての暴露につながってのではないかということも言われています。

いずれにせよ、16年前のこととはいえ、未成年への淫行は重大な犯罪行為です。決して許されることではありません。


(2)日村氏への擁護論と被害女性へのバッシング

にも拘わらず、ここ数日間の報道やSNSでの発信をみている限りでは、少なくない規模で「今更なのに、きちんと謝罪コメントを出した日村は立派」「16年も経過しているのになぜ今さら・・」「金でも狙っているのか」といった日村氏を擁護する声、そして被害女性へのバッシングが相次いでいるような状況となっています。

こうした声からもわかるように、16年も前のことをいまさら暴露したこと、さらに現在の日村氏の人気の高さや当時の被害女性が口ピアスをいくつもつけていたこと、日村氏に最初に近づいたときに年齢を偽っていたことなどの印象の悪さが日村氏の擁護と、被害女性へのバッシングにつながっているのでしょう。

とはいえ、女性は当時16歳の未成年。それに、記事の内容が真実であれば、被害者の女性は途中で自分の本当の年齢を明かしており、日村氏はそれを承知したうえで淫行を継続していたというのですから、日村氏が“未成年に淫行を行った”という事実についてはなんら変わりはないわけです。

こうした重大な犯罪行為を行っていたのにも関わらず、マスコミ・SNSで加害者を擁護し、被害者に対してバッシングがされる現在の日本の状態ははっきり言って異常だと私は考えます。改めてなぜ日本でこのような異常な状態が起きてしまうのかについて私たちは真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

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平井信義さんについての補足

★平井信義さんについての補足

前回の記事で、平井信義さんについて少し触れさせていただきましたが、書かれた内容を読んだときにともすると平井さんの功績について、あまりよくない印象を読者のみなさんに与えてしまうのではないかと後から思い少し補足させていただきたいと思います。

以下に紹介するのは、全国不登校新聞社が、”不登校50年証言プロジェクト”ということで、心理臨床家として不登校問題についても造詣の深い横湯園子さんからのインタビューを掲載した内容です。


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それ(情緒障害児には、教科学習をせず、体験学習だけでいいという答申)については、私は断固闘ったんです。国府台病院の情緒障害児学級は、日本で初めての登校拒否児を対象とした院内学級として1965年に開設、1968年から3年間、文部省の研究委託を受けて、「情緒障害児の教育内容・方法の実験研究」をしていたんです。私はその3年目に入って、ちょうど研究結果を出す年でした。私たちが教育実践の報告をして、それをもとに精神科医や小児科医、教育委員会、校長会の方も入って議論して、結論として答申を出すのですが、その内容に、若かった私はナマイキにも異を唱えたんですね。

  「この子たちは病気ではなく、症状がとれれば、ふつうの子である」とあったのはよかったんです。しかし、「情緒の障害だから、教育は音楽・図工・技術・体育だけでいい」とされていることに対しては、私はひとりで猛反対しました。ふつうの生徒たちであれば、その後、自己実現に必要な科目が保証されるべきである、道を狭めてしまってはいけない、と。

 会議終後、校長室に呼ばれて「えらい精神科医や大学の先生たちを前に、なんてこと言うんだ」と校長に叱られ、「次の会議であやまりなさい」と言われました。その場では「わかりました」と言って引き下がったんですが、次の会議では、また言い張ったんです(笑)。そうしたら、平井信義先生(小児科医・児童心理学者/1919―2006)が「それはそうだ」とおっしゃってくださって、すべての科目を保証すべきだという結論になったんです。校長はにらんでましたけど、それ以上はおとがめなしですみました(笑)。
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 当時、国府台病院の情緒障害児学級に勤めていた横湯さんは、不登校状態である情緒障害児とみなされている子どもたちに対して、「情緒の障害だから、教科教育は必要はなく、体験学習のみで良い」という答申を出そうという流れに対して、異を唱えました。
 その横湯さんの意見を唯一「その通り」と賛成してくれた人こそ平井信義さんだったのです。

 1960年代といえば、不登校・登校拒否については、医学的な治療対象と一般的に考えられている時代で、そうした時代背景の中で、「症状がとれれば普通の子。だから教科教育も保証されるべき」という立場に立っていた、横湯園子さん、そして平井信義さんは不登校・登校拒否児に対して、先見の明を持っていたことは疑いようがありません。

 今では、”不登校・登校拒否児だから教科教育は必要がない”なんてことを口にすれば、大問題ですが、それが一般的になったということに関しては、こうしたお二人のような研究者の努力があってのことだと思います。

 そういう意味でも平井信義さんの生前の功績は、不登校・登校拒否をはじめとする子育て研究に関して大きな影響を与えてくれたのだということを改めてここで触れておきたいと思います。
 
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今、改めて母に伝えたいこと~母の子育てに関する環境にふれて~

★久しぶりの地元の図書館へ

6月に山梨から地元の長野に引越してきたわけですが、先週久しぶりに地元の図書館に足を運びました。私が中学生だった時以来の訪館だったのですが、あまりにも長い時間が経ちすぎていたのか、昔の図書館の記憶がまったくなく、まるで初めて訪れたかのように感じました。

 図書館では、1時間程度ぐるぐると回って大まかにどんな本があるかを確認して、結局この日は、『子どもの生活世界と子ども理解』(かもがわ出版・教育科学研究会)という本1冊だけ借りることにしました。


★“平井信義”さんのお名前と母との思い出

 図書館から家に戻った後に、借りた本の中に掲載されていた広木克行さんの論文「不登校支援における親のこども理解の重要性」を読んでいた時に、文中に“平井信義”さんの名前が引用されているのを見つけることができました。

 平井信義さんは児童心理学者・小児科医で、戦後まもない時期から子育て研究に関して長きにわたり貢献されてきた方です。その著作の中で代表的なものの一つが1984年に企画社から出版された「心の基地はおかあさん」という本で、当時140万部以上のベストセラーになったそうです。

 実はこの平井信義さんの著作は母のお気に入りだったようで、母の部屋の本棚に平井さんの本が何冊も置いてあるのを目にした記憶があります。そんなわけで、広木さんの論文の中で平井信義さんのお名前が出ている個所を読んだ際に、とても懐かしく感じました。


★広木克行さんの平井信義さんに関わる叙述について

 ところで、広木さんの論文の中で平井信義さんがどのような形で登場したかというと、以下の通りです。

「不登校支援の実践は、その初期においては不登校をこどもの異常と捉え、その子を育てた母親に原因を求める見解が支配的でした。1970年~80年代の文部省の登校拒否政策に大きな影響力を与えた専門家として稲村博氏という精神科医がいますが、その稲村氏が執筆した本の中で母親療法の章を執筆した平井信義氏は「養育の中心は母親にありますからその養育態度が登校拒否児に大きな影響を与えていることは言うまでもありません。その母親療法のエッセンスとして“母親に対する提言”をまとめ、不登校の原因、子どもの自主性の発達の遅れに求めたうえで、その子を育てた母親に過保護や過干渉を一切取り除くこと」を要請していることからも、当時の不登校・登校拒否の原因を母親に求めていることは明らかです。」

 このように文中では広木さんが、平井信義さんに対して、不登校・登校拒否に関して「母親原因論」の立場に立っていたことを指摘していました。


★「登校拒否」・「不登校」の理解の変遷について

少し話はそれますが、広木さんが論文の中で「母親原因論」というものに触れていましたが、不登校・登校拒否というものが、歴史的にどのようにその認識を変遷させてきたかについて、ここで簡単に振り返っておきたいと思います。

 大雑把になってしまいますが、私なりに不登校・登校拒否の歴史について、以下通りまとめてみました。

① 戦後直後の時期(1945年~1950年頃)
戦後直後における経済的困窮と、「こどもは学校よりも農業や漁業などの家業を手伝うべき」という家庭観による“長期欠席者”としての認識

② 1950年~1960年代
“学校ぎらい”“学校恐怖症”とも呼ばれる、本人の性格や親の生育環境が原因となる医学的治療対象としての認識

③ 1970年~1980年代
本人の性格や資質、特に(母)親による育て方に責任を帰する“登校拒否”児童としての認識

④ 1990年代~
登校拒否は病気ではなく、本人や家庭環境だけが原因ではなく、学校や社会構造を含めて複合的にとらえるべきという“登校拒否・不登校”としての認識

 このように、不登校・登校拒否はこの半世紀の間に、医学的な治療対象と考えられていたところから、様々な複合的な要因の産物というところまで大きくその見方が変化してきています。

 その中で、平井信義さんがその代表作である「心の基地はおかあさん」を執筆し、母がその著作に大きな影響を受け、自身の子育てに奮闘していたのは、ちょうど不登校・登校拒否などをはじめとする子育ての責任は、母親に帰するものという考え方が社会的に大きく幅を利かせていた時代であったわけです。


★母の生い立ちと子育てにおける環境について

 そんなわけで子育てに関する重圧は、必然的に母の肩に大きくにかかっていたわけですが、その母が子育てを実践するにあたって、家族をはじめとする周囲の支援が十分だったかと言うと、決してそんなことはありませんでした。

 実は、母は実の母を5歳の時に病気で亡くしており、母自身は、後妻として嫁いできた現在の私の祖母に育てられという経験をしています。

 その祖母はと言えば、出産経験がないので、乳幼児を育てた経験はありませんでした。一方私の祖父は昔ながらの保守的で厳格な人で女性蔑視の思想が強く、度々祖母と母に暴言を吐くような人で、母と言い合いになることも度々でした。当然、子育てに関しても何かと母を責めるばかりでの人でした。
 また、私の父は長距離運転手という職業上ほとんど家にいることはなく、婿養子という立場もあり、祖父母に対して口を出すことは全くなく、子育てにも比較的無関心な人でした。

そんな家庭環境だったわけですから、母の子育て環境としては明らかに恵まれているとは言い難い状況でした。
 
 このように母親が子育てをするにあたり、家族の支えが脆弱であったということに加え、当時の子育てに対する責任が全面的に母親の肩にのしかかるという悪条件のもとで、母親は懸命に私たち兄妹を育ててくれたわけです


★今、あらためて母につたえたいこと

 これらをふまえたうえで、母が私たち兄妹を育ててくれた当時のことを振り返ってみると、妹はどう考えているかはわかりませんが、私自身母親の子育てに関して大きな怒りや不満を持ったことはなく、“とても良い母親だった”というのが本当の想いです。
 
 今改めて、昔のことを思い返すと、母の口癖だった「自分のことは自分で決めなさい」という言葉も、先ほど引用した平井信義氏の“母親への提言”にある「過保護・過干渉の撤廃」「こどもの自主性の尊重」という言葉をしっかりと胸に刻んで実践していたのかもしれません。
子育ての責任がすべて母親の責任とされる当時の風潮と家族の支えも脆弱な中で、私たちを尊重し、過保護も過干渉もせず温かく見守るというということを実践するには、並大抵の勇気と覚悟ではなしえなかったことではないでしょうか。


もし、私が当時の母に一言伝えることができるのであれば

「大丈夫、母ちゃんは立派に子育てしてくれているよ」

そう伝えたいな・・と思うのです。


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