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”無関心”を装った関心①

 個々の患者にたいするそのようなエリクソンの捉え方の一端は、たとえば、「幼児期における自我の破滅――ジーンの場合」のなかに垣間見ることができる。エリクソンと出会ったとき6歳だったジーンのものや人とのかかわり方の深層に、エリクソンは、つぎのような葛藤を見ている。


ジーンの対人関係は遠心的であった。つまり人から離れていった。私は「遠心的接近」というこの奇妙な現象を、何年か前にも観察したことがあった。それはしばしばひととの接触の単なる欠如として解釈されているが、……彼女のまなざしは、私の顔を中心にして、同心円を描きながら周囲のいろいろなものの上に、うつろに移動していった。いわば、私を見ないことによって、私に関心を示したのであった。


……ジーンが私の部屋から部屋を、狂気のように駆け抜けながら、幾度も立ち止まってはベッドの枕に注意を集中し、それに愛情を激しく注ぐ様子を観察したとき、私にはそれが次のような理由で重要であると思えた。ジーンの知覚の認識が極端に混乱しはじめたのは、母親が肺結核を患って病床に着いてからのことだ、とこの母親が語ったことがあった。……この子どもの枕にたいする狂気じみた愛情は、おそらく彼女が母親の病床へ近づくことを禁止されていたあの時期と関係があると思われる。おそらく、なんらかの理由で、彼女はこの分離にたえられなかったのであろう。そしてすべての人との接触から逃避するという永続的な仕方で、その事態に「適応した」のであり、病床に着いたきりの母親にたいする愛情を、いま、枕にたいする愛情という形で表現していたのであろう。


 エリクソンは、ジーンに見られるひととの接触の欠如や枕への異様な執着を、たんに病的な兆候として捉えるというよりは、それらを、ひとを見ないことによって人に関心を示す「遠心的接近」や「病床についたきりの母親にたいする愛情」として捉え、そこに彼女がおかれた境遇にたいする彼女なりの人間的な葛藤と試行を
見ている。ジーンは6歳(幼児期)の少女だが、乳児期にきわだつ「母親的人物」とのあいだの「基本的信頼」と「基本的不信」の葛藤を生きることをとおして、なにかを越えようとしているとエリクソンは見ているのである。


自己形成、他者承認、承認文化の形成<教育科学> 中村, 麻由子 , 岩川, 直樹 埼玉大学紀要. 教育学部


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昨日、今年も1年に1度、障害者の方々と一緒に旅行に行くボランティアに参加してきました。今年はどちらかというと子ども向けのレジャー施設に行ってきたのですが、何せ坂道なのと、バリアフリーがまったく整備されていない場所なので、なにかと苦労する一日に。

この日、目的地が隣の県ということもあって、バスでは1時間30分程の移動でした。毎年自分はバスの中では進行&レクリエーション係ということで、クイズや目的地の土地柄などのお話をさせていただきました。

自分が担当したバスは、福祉車両ということで、車椅子の方が2名と、ボランティアの方が6名の8名の乗車でした。なるべく、みんなが退屈しないようにということで、できるだけ全員に話しかけることをこころがけながら時間をすごしていました。

企画自体は何の問題もなく終わり、初めて参加した障害者の方も満足されていて、帰り道では、上機嫌に今日の出来事を語る方々でバスの中もにぎわっていました。自分も、そんな楽しそうな参加者の笑顔をみて、自分なりに満足していました。


ただ、そんな自分の達成感が、自己満足だったと気づく出来事がありました。

同じバスに乗車していた車椅子の高齢者のおばあさんに挨拶をして帰ろうとしたときに、そのおばあさんは、この日お孫さんと一緒に参加されていましたのですが、私はそのおばあさんと握手をして、御礼をいい、一緒にいた娘さんにはお礼どころか、目も合わせずにわかれてしまったのです。


2人と別れた後、自分のなかにずっともやもやしたものを感じたのをよく覚えています。しかし、その場面では自分なりに当然の行動のようにそうして帰ってきてしまったのです


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