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「コミュ力」と「コミュ障」

雑誌”ちいさななかま”に連載されている岩川直樹さんの連載「ことばからみる今」から


 予備校生として東京に来た頃だから、かなり昔の自分の話だけど、ある店のレジのところで一人の若い女性客に店員がまごついている場面に出くわしたことがあった。

 そのお客さん、レジの前にいるのになんの商品も手にしていない。店員は、「何かお求めですか」って丁寧に聞くんだけど、ことばが返ってこない。からだをふらふらゆすって、「あ-」とも「え-」ともつかない声を発している。その奇異な表情やしぐさを見たときに、「あっ、この人何かの病気なのかもしれないな」って思った。店員が困っていると、奥から店長さんみたいな人が出てきて、「やさしい」声をかけながら、彼女を店の外に連れ出していった。

 
 そのとき、そのお客さんがしたかったことが、なんとなくわかるような気がしていたんだ。彼女の目が、レジの後ろの小さな縫いぐるみをみているようだったから。もしかすると、この人はその縫いぐるみを買いたいんじゃないかって。


 でも喉元まで出かかったその声を殺してしまった。その場のみんなの空気にあわせようとしたからだ。なんか変なお客さんのせいで、店員もまわりの客も困っている。なるべく穏便にそのお客さんにお引取り頂いて、いつもの秩序を取り戻そうって空気に。彼女はこれといった抵抗をするわけでもなく、とぼとぼ店から立ち去っていき、みんなは無事に買い物をすませた。

 
 店からの帰り道、もやもやとしたいやな気持ちに襲われた。なんであの時声をかけなかったんだよ。小さな子どもが同じことをしていたら、声をかけただろう。なのになんであの声を押し殺したんだって。
 

 そう考えているうちに、一つのことがはっきりした。声をかけなかったのは、あの人のことを「病気」だと思ったからだと。「病気」だと見た瞬間、あの人が求めているものに応えようとするからだから、あの人にみんなで対処しようとするからだに変わっていたんだ。


 「病気」だろうと、そうじゃなかろうと、あの人は、レジの前に立って何かを訴えていたんだから、そこに関心を向け続ければよかった・・
 

 ・・・まだ、「コミュ力」や「コミュ障」なんてことばはなかったけど、今、そこらじゅうで起きていることは、あのときの自分におきたこととどこか似ているんじゃないか。「障害」や「病気」と見た瞬間に、相手への関心が途切れる。彼女と、私を比べたら、今で言う「コミュ力」が高いのは多分私たちのほうだろう。しかし、コミュニケーションを切っていたのは、その私のほうだったのだ。


あるある・・・。

 近年”発達障害”という概念が急速に広まったり、その他の精神障害、人格障害のこともたくさんの人に周知されるようになりました。そのこと自体は、これまでそうした困難を抱えながらも周囲の人たちに理解されず、様々な意味で”障害”を負っていた人たちにとっては、良いことであったのだと思います。

 しかし、一方で上記の岩川さんの指摘のように、ちょっと対人関係に問題を抱えている人がいると「あっ、この人発達障害かも」と、勝手に”障害”のレッテルを貼り、その人への関心を閉ざし、理解することをやめ、”対処”しよう、ともすれば”排除”しようとしてしまう。その行く着くところが、「あの人ちょっと変」「KY」「コミュ障害」という名での排除であり、私たちの日常生活の中で多くみられることなのではないかと思うのです。


 特に、私みたいな医療機関に勤めている人間にとって、”○○障害””○○病”という障害や病名を勝手に他者に括りつけて、それで問題が解決したようにしてしまう風潮はありがちのような気がします。

 
 障害も病気も、そうした診断名があるのはその障害や病気をあくまで”理解”するためであって、排除するためのものではない、そのことを肝に銘じておかなければ・・と改めて感じました。
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