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憲法をめぐる対峙

【”最高責任者は私だ”発言に見られるもの】


 「(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」。安倍首相は(2月)12日の衆院予算委員会で、現行憲法下で禁止されてきた集団的自衛権行使の憲法解釈を自らの一存で変更できるとの立場を示しました。


2月13日の全国紙に上記のような記事が報道されました。

自衛隊を海外派兵できるようにし、アメリカと一緒に戦争の出来る国を目論む安倍首相。そのために、戦後、憲法9条が守り抜いてきた原則を骨抜きにし、集団的自衛権行使を可能にするための解釈改憲は、”私が最高責任者だから”とその時々の政府が解釈を自由に変更できるように道をひらくことにつながります。


【集団的自衛権と憲法9条】


この安倍さんの発言は主に2つの意味で問題と考えます。

一つは、集団的自衛権の行使が憲法9条に抵触するということです。

集団的自衛権は、アメリカなどの同盟国が武力攻撃を受けた際に、日本が直接攻撃を受けていなくても、自国への攻撃とみなして反撃できる権利のことです。

日本への直接攻撃に対して反撃できる個別的自衛権の範囲を同盟国や友好国にまで拡げたものですが、日本政府は、戦争放棄などを定めた憲法9条との兼ね合いで「国を防衛するための必要最小限の範囲を超える」と解釈し、集団的自衛権の行使を禁じてきました。

憲法9条を有する日本では、集団的自衛権の行使は認められていない。それが戦後70年近くの議論の中での結論でした。


【立憲主義を覆す安倍氏の発言】


もう一つは、この問題が”立憲主義”の立場を覆すものだということです。

既に様々なところで議論がされていますが、本来憲法というものは、国民の手足を縛るものではなく、主権者である国民が国家権力を縛るためのものです。
それが、縛られる側の政府が自由に解釈できるのであれば、それは憲法の本質を見極めない本末転倒な議論と言わざるをえません。


以上2つの点で、安倍首相の”最高責任者は私だ”という一連の発言の問題があると思います。

そして、最後に私がもう一つ問いたいのは、この問題は、戦後70年近く日本の平和を守ってきた国民一人ひとりの力に対する評価の問題だということです。


【”憲法9条をノーベル賞に”運動から見えるもの】

少し話がそれますが、戦後67年間、戦争放棄をうたう憲法9条を保持し続けてきた「日本国民」が先月、今年のノーベル平和賞候補にエントリーされました。

運動を始めたのは神奈川県座間市の鷹巣(たかす)直美さん(37)。憲法を改正しようという世の中の空気に、7歳と1歳の子供の母親として素朴な疑問を抱いていた鷹巣さんは「戦争になれば、子供が悲惨な目に遭う。9条を守るためにできることは……」。思いついたのが「9条に平和賞を」とノーベル委員会に訴えることでした。

「9条に平和賞を授与してください」。むちゃを承知で昨年1月、初めてメールを送りましたが、返信はありませんでした。

その後も何度かメールを送るが、やはり返信はなく、転機は昨年5月。インターネット上の署名サイトで「9条に平和賞を」と呼びかけると5日間で約1500人の署名が集まった。委員会に知らせると、翌日返信があった。「2月1日の推薦の締め切りを過ぎている」という内容だったが「エントリーには有識者の推薦が必要」などとヒントも記されていた。何より、受賞者は個人や団体に限られ、「憲法9条」のような抽象的なものはそもそも候補になれない、と知ります。

 そこで鷹巣さんは、憲法が主権者と定めている「日本国民」を受賞候補にしようと決めました。「憲法にはいろんな意見がある。でも『戦争したくない』という気持ちは同じはず。戦争の悲惨さを語り継いだ人々の思いにも光を当てたい」。そんな願いも込めたそうです。


【日本の平和・憲法9条の担い手としての国民の存在】


受賞候補を”日本国民”にしたというところが私にとっては印象的でした。なぜなら、戦後日本の平和を維持してきたのは憲法9条がの存在があったから、ということは間違いありませんが、その憲法9条を守り、生かしてきたのは国民一人ひとりの平和を願う心と、具体的な取り組みがあったからからのはずです。

日本平和の担い手として、”国民”という存在をクローズアップさせてところにこの運動のもうひとつの意義があるように思うのです。


話はもどって、安倍首相の発言から読み取れるのは、日本の平和を守る担い手は、集団的自衛権の行使に関わる自衛隊や米軍であり、それを決めるのは”最高責任者”の自分だという、国民不在の思想です。

一方、憲法9条をノーベル平和賞にということで運動してきた方々が示しているのは、戦後70年近く平和を維持してきて、かつ、これからも日本の平和を守っていく担い手として、日本国民を据え、この運動という実践を通じて、”私たち国民一人ひとりが日本の平和を守っていくんだ”という力強い意志の大きな力の存在です。


繰り返しになりますが、戦後70年近く日本の平和を守ってきたのは、自衛隊でも米軍でもなく、平和を願う日本国民一人ひとりの力であり、憲法9条を生み、守り生かしてきたのも国民のそうした力によるものだと私は思うのです。

もし安倍首相が言うとおりに、日本の平和を守るのは自衛隊や米軍であり、それを決めるのも国民ではなく、”最高責任者の私だ”ということがまかり通ってしまうのであれば、戦後70年間の平和を守る国民一人ひとりの努力や実践を意味のないものとし、日本国民一人ひとりの力を無力化してしまうことになるでしょう。


私たちは決して無力ではありません。

今、集団的自衛権の危険性や、憲法のあり方としての立憲主義に注目することは当然必要なことです。しかし同時に、戦後以来、日本の平和や憲法9条を守ってきた日本国民一人ひとりの平和を願う大きな力を今一度評価し、エンパワーしていくことも求められているのではないでしょうか?

これまでの日本社会を築いてきたのは日本国民であり、これからの社会を築いていく力の主体も日本国民にあります。そのことを、この問題を通して注目し、明らかにすることは、きっとこの先、安倍首相の思い通りの国づくりを許さない、国民本位の国をつくっていくための大きな力になるのではないかと思います。





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