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社会(保障)の在り方

先日、衆議院で税と社会保障の一体改革と共に審議されていた「社会保障制度改革推進法案」が衆議院で可決された。まともな審議もせずに一方的に数の力で押し通すといった、民主主義すら無視したゴリ押し方には本当に怒りを覚えます。


この「社会保障制度改革推進法案」の第2条には以下のように書かれています。

「1.自助・共助及び公助が最も適切に組み合わされるように留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」

これは既に多くのところで問題点が指摘されていますが、つまりこの法案は、社会保障の基本を”自助”=自己責任とし、自己の力でどうしようもない場合に、共助(家族や関係者内で助け合う)を求め、それでもどうしようもない場合に最終的に”公助”(国によるセーフティーネット)を利用することが出来る、このように社会保障の概念を変革しようとしているのが目的なのです。


いわずもがな、社会保障費を圧縮することが目的なのがあけすけに書かれているけれども、”公”が保障するから”社会保障”なのに、”自助”が基本ならば、それはもはや”社会”保障とは呼べない代物だって、誰だってそう思うはずだと思う。


でも、公の”公助”抜きに自助・共助を強制するのは本質的におかしいけれど、自助はともかく、”共助”は大切なことではあると思う。


人と人とのつながりが希薄になりつつあるこの時代。助けあうこと、支え合うことの大切さは強調されてしかるべきな気もする。ただし、”共助”というのは、それぞれの絆の強さはもちろん、共に助け合えるだけの様々な意味での”余裕”が個々に存在していることが求められると思う。

現在の社会構造では、特に経済的な面で、国民の個々の生活が脅かされざるを得ない状況では、みんなそれぞれ自分の生活を守るのが精いっぱいで、他人の生活を支える余裕なんてとてもないのが現状だと思います。どんなに良心が強い人でも、気持ちだけでは人は支えられないし、逆にお金だけあれば人を救えるわけではない。しかしそうは言っても、共助の土台には経済的な面を含めて人々の余裕がなければならないし、それを保障するのがある意味”社会保障”のあるべき本当の姿ではないかと思います。


人と人との支えある姿というものは、法律なんかじゃ決められない。法律をはじめとする社会制度ができるのは、きっと人と人とのつながりをつくる土台を保障するところまで。しかし、公に保障された中でこそ人々は安心して自発的にお互いをより助け合う、そうした行為が生まれるものなのかなと思います。

公助を切り捨てることは、本質的には共助や自助すらままならないものとすることにつながるわけです。そうした意味でもこの法案が可決されないように、反対の声を大きくしていく必要を感じました。
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