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狂信主義者への処方箋②

【私と狂信主義】
これまでの自分を振り返ってみるとまさしくこの通り。たとえば、「自尊心がない青年たちを励ましたい」「就職できないのは自分のせいだと思い込んでいる青年たちにあなたのせいじゃないと伝えたい。」「ニートやひきこもりの状態にある青年に共感してあげたい」と他の人たちを“救ってあげたい”と思いきや、自分は大学の授業にほとんど出席せず、ぎりぎりの卒業でましてや就職活動もほとんどせずと自分のことは関心がない状態。自分の問題からは逃避し、他者の問題には関心をもつ、そんなおかしな行動をとってきたこともありました。
 そして、救ってあげたいと自分から近づいておきながら、自分に依存してきたり挑発行動をとってくるものなら、その相手に対して無視や陰口のオンパレード。
 結局自分は何がしたいんだ・・自分の不確実性というかにうんざりする日々を送ってきました。


【狂信主義と支配関係】
こんな狂信主義的な私がとってきた行動は、一見相手のためにみえるけれど、実際のところはどれだけ相手のためになっていたのだろうと疑問に思います。
 狂信主義者のよくあるパターンとしてアモス・オズはこう述べています。

「あるパターンは、他の人の生き方にせっせと気を配ることこそ自分の生き方だというあり方。自分を犠牲にして、隣人の望みや次の世代の人々の幸福を達成してあげようというわけです。
ですが、自己犠牲というのは、その恩恵を受ける人にとっては、大変の罪意識を生み、結局はそれに操られ、支配されることになります。有名なユダヤ・ジョークにある二人の典型的な母親--『ごはんをちゃんと食べなさい。さもないと、殺しちゃうから』と『ご飯をちゃんと食べなさい。さもなきゃ、ママ、死んじゃうわよ』という二人のうちどちらかを選ばなければならないとしたら、私はこの理不尽な選択のうち、少しでも迷惑のかからないほうを選びます。つまり、食べ残して母親にしなれ、一生罪意識に縛られるよりは、食べ残して自分が殺されるほうをとります。」

そう、ここにあるように、自己犠牲を通じて相手に尽くそうというのは結局は相手を支配することにつながってしまうんだなって思いました。
 ただ自己犠牲になるかならないかというのは結果論的な部分もあるから、一概に「自己犠牲だからよくない」って言うふうにも思っていないけれど、一番大事なのは、自分の中の“相手を救いたい”って気持ちがいったい何を端にしてはじまっているのかってこと、あとはアモスが行っているようにそのはじまりとプロセスに“他者への想像力”を持てているかどうか、ということが重要なのかなって思います。


【狂信主義への処方箋】
アモスは“狂信主義の種はいつでも決して妥協しない独善に宿る”と述べています。この言葉を借りるのであれば、“独善”というのは独りよがりの善行ともいえると思います。ある行為は本当に“善”なのか否かというのは、“私”自身が決めるのではなく、私以外の他者との関係によってきまるもの。そのことを自覚しているかどうかということが具体的なところでは大事なのかなって感じます。
 
 具体的にアモスは狂信主義への処方箋として“ユーモア”のセンスをあげました。ユーモアとは相対主義。ユーモアとは人が自分をどう見ているかがわかる力。ある考えに凝り固まらず、決着をつけない状態で生きる力、多様性を楽しもうとする力だといいます。

 “決着をつけない”というと、「日和見的だ」「妥協だ」と非難する人がいるかもしれません。しかし、今までの私のとってきた行為が狂信主義的で独善であり、結局は相手を支配したいという欲求にかられた、そんな歪んだものであったことは事実だと思います。“共感”したいつながりたいとそう思っていながらも、心のそこでは少しでも考えの違う他者に対して、その存在を認めない、他者性を受け入れないというような態度をとってきた私にとっては、こうした決着をつけない状態を受け入れることは他者性を受け入れるという意味で必要なプロセスではないかと思うのです。
 
この本には、本当に大事なことを気づかされた、そんな気がします。

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