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受け入れること・手を結ぶこと

仕事も何もかも忙しく、私自身の余裕がないからでしょうか。他者の発言や態度を受け入れるcapacityというかが少なくなっているような気がするこの頃。

 ささいなことにイライラするし、そもそも他者を受け入れること自体が越え難いとても大きなハードルのように思える。
 もともと私自身他者に対してそんなに寛容でないのかもしれない、そんな風にも思う。

ちょっと前に読んだ湯浅誠さんの論文に以下のようなことが書いてありました。


「私は貧困の問題で『溜め』という話をしていますが、『溜め』の小さな人に対しても、その人が生きてきた何十年かの歴史があっての発言なので、それを踏まえる必要があると思います。その意見が『正しい、正しくない』はあるにせよ、人生を背負ってきた意見だというところをみようとしない人を、私は一番許せません。『人の人生をなめるなよ!』と思うのです。  われわれは、仲間のうちで固まることには居心地が良いから慣れていても、意見の違う人たちとの異種格闘技になれていないと思います。けれど、外に広げていくときには異種格闘技をしなければならないし、そのときに必要なのは、今までは違いを見つけることに割いてきたエネルギーを同じことをみつけることに割くということです。  活動家といわれる人の中には、他人の批判をするのが得意で、しかもけっこう的確な人がいます。『あいつのあそこが足りない』『お前はこれをやっていない』とか。そうだとしても『だから?』と思います。一人の人間ですから、やっていないことを挙げつらい始めればいくらでも挙げられるに決まっているわけで、それでは広がりは持てないと思います。」

『高校生活指導』2010年冬号 湯浅誠 「活動家一丁あがり!-派遣村後の『反貧困』運動


 
 ここでも述べられていますが、自分と異なった意見の持ち主だって、その立場を築くまでにさまざまな苦労や困難があることかと思います。そうした人生を通じて培ってきたものを、簡単に否定したりすることはよくないな・・っていうことはまったくその通りだと思います。

 ただ、私自身なかなか他者の批判することにエネルギーを割きがちで、他者と同じことをみつけることに割いているというわけではないなって実感します。

 
 そうはいっても、私自身、”他者への共感”や”受容”というthemeに関しては意識的に高めようとしてきたつもりではあります。ただ、それはこの社会や人間関係の中においての弱者、正確には弱者とさせられている人たちに対してに限定されたものなのかもしれません。

 私自身どうやっても、日本経団連の会長であったり、カルロス・ゴーンや日銀の総裁などに共感しようと思ってもそれは困難です。

 それよりも、自分のせいではなく社会構造の結果ひきこもりになってしまったり(最近の報道で日本国内で70万人いることが明らかになりました。)、不登校やニートの状態に置かれてしまっている人に対して、理解し共感したい、そういう風に思っているわけです。


 私が、他者を受け入れられない理由を客観的に挙げるとしたら、きっとその他者が私にとっては、何かしらの権威的だったり攻撃性を持っていると思われるからなのだと思います。

 この点が私にとっての最大の葛藤なのだと思います。

 立場の違う他者に対して、手をつないでいくことの重要性はわかるのですが、その他者がそのまた他者に対して攻撃性を持った行動をとっているように見えるとき、一体どうしたらよいのだろうと思うのです。

 普通の人だったら是々非々の立場をとって、良いところは励まし合って、悪いところは指摘しあってと柔軟に対応できるのかもしれませんが、私自身そういう柔軟性は人と比較して”ないな・・”って思います。

 こうした私が、一つの”場所”を作っていくとすると、正直力量不足だなって思うのです。

なんにしろ、人と生きていくことっていうのは難しいことだなと実感する毎日です。
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天皇賞 秋 2010

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