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臨床家と運動家②

 横湯さんのこの本のこの”はじめに”の部分を読んだときに、一番印象的だったのが、「しかし臨床家は活動家ではありません。」というこの一文でした。横湯さんがどういう意味でこの”臨床家”そして”活動家”という言葉を使ったのかは定かではありません。ただ、この”臨床家”と”活動家”という言葉は今の私の問題意識に関わることでした。

 私がずっと問題意識として抱えていたのは以下の湯浅さんの問題認識に近いと思っています。

 「同時に難しさを感じるのは、まあ、「もやい」でも、そういう居場所を持っているから感じるんですが、居場所というのは「何でもあり」だから居場所になるんであって、異議申し立てが自然に起こってくることはなかなかないんですね。また異議申し立ての話を繰り返しすると、そこは居場所としての意義を失って、そうじゃない人はいちゃいけないという場所になってしまう。そういう意味では、社会運動とかロビイングとか、そういう政治的・社会的な動きと、居場所の持っている「まったり性」みたいなのを、どう活動の中で両立させるのか、というのは結構難しい問題ですね。「もやい」はとりあえず役割分担をすみ分けてやってます。一人の人が両面の顔をしようと思っても、それは無理だから、二つの中心があるような、楕円の活動をするというか。そういう活動の仕方で、人がどっちでも往復できる。まったりしたければそっちにいけるし、 何かやりたければこっちのもこれるというような、そういうスタイルをつくっていくことが大事かな、と思っています。」

 抜粋:「貧困研究vol1」― 明石書店 2009
   「反貧困運動の組織化と研究への期待」 P76~82 湯浅誠 インタビュー松本伊智朗

 ここで湯浅さんが指摘しているように、「社会運動とかロビイングとか、そういう政治的・社会的な動きと、居場所の持っている「まったり性」みたいなのを、どう活動の中で両立させるのか」ということ。このことが私が抱えている問題意識と重なるところがありました。

そんなときに横湯園子さんが”活動家”と”臨床家”という2つの言葉を使い分けていたことはとても印象的でした。社会運動と湯浅さんのいう居場所の”まったり性”というものは活動の中で両立するものなのか。両立するにしてもいかに両立させていくのかというのは本当に頭を悩ませる問題であると思います。
 
 実際に、ある組織に、社会に異議申し立てを目的に参加してくる人にとっては、いわゆるその組織の場所の”まったり性”が”甘え”のようにとらえられるかもしれないし、逆にその組織に”まったり性”を求めて参加してくる人にとっては、社会への異議申し立ての運動に対して「ついていけない」感覚を覚えるかもしれない。 特に人間関係に困難を持ち、主体性が確立していないようないわゆる”いっぱいいっぱい”の状態にある青年にとって”活動的であること”を求められるとしたら、その居場所は居場所ではなくなってしまうだろう。

 こうした軋轢は似たような活動を目的としたどのような組織にとっても生じえる問題だと思う。いうまでもなく、これはどっちが良いという問題ではなく、どっちも面も必要なのは間違いありません。ただ、この両立の問題はこれからの探求と実践の中で考えられていく問題だとは思うけれど、今の時点で求められるのは”社会運動”まったり性”の互いの存在意義を尊重しあうことではないかと思う。
 互いが互いのプライドやアイデンティティを守るために、協力関係を築けないようなことだけはもっともさけなけれならないことなのだろうと思います。

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