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”ダブルバインド”考察①

最近、「これって”ダブルバインド”じゃない!?」というような人間関係に出くわすことがある。ちょっとこわくなったので自己防衛のためにもダブルバインドのことについて書き留めておきたいと思います。

 ダブルバインドについては知識不足なので、私見になりますがすみません・・。

まず最初にウィキペディアには次のように紹介されています。

----------------------------------------------------------------
【ダブル・バインド】
2人以上の人間の間で
繰り返し経験され
最初に否定的な命令=メッセージが出され (第1次禁止令)   
次にそれとは矛盾する第二の否定的な命令=メタメッセージが、異なる水準で出される(第2次禁止令)
そして第三の命令はその矛盾する事態から逃げ出してはならないというもの (第3次禁止令)
(※上記下線部と言葉はブログ筆者のかいたもの)

ついにこのような矛盾した形で世界が成立しているとして全体をみるようになる
という状態をいう。

誤解を承知でわかりやすく例えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。

そして以下のような症状が現れる、とした。

言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型)
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

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ということだそうです。

私は基本的に”ダブルバインド”というのは基本的に人を支配するコミュニケーションだと思っています。そしてある支配関係にある二者関係においてダブルバインドの状態が存在する場合、支配する側が被支配者に対して服従を不可避とする構造を構築していると思われます。

 たとえば、親子関係でいえば、親の側が子どもに対して「食わせてやっているのだから」ということを盾にしたり、会社の上司と部下のあいだでは「雇ってやっているのだから」というメッセージを盾にする。それを実際に言葉にはしないけれども、そういう「お前にくわせる飯はない」「首にしてやるぞ」という暗黙のメッセージによって、被支配者は服従を余儀なくされる状況(土台)が形成されていることが前提としてあるのではないかと思います。

ただ上記のように親子関係では「生活(費)」、上司と部下では「雇用関係」という土台がありましたが、これは金銭的なものでなくても、被支配者が支配者を服従させられるような土台ならなんでも良いのだと思います。
たとえばそれが「恩」であっても良いし、具体的な金銭の貸しでも良いと思います。あるところではこれを「逃げ出すことを禁じる”第3次禁止令”」と呼んでいました。


 ある組織においてこんなことがありました。
「なんでも語り合える雰囲気づくりを」なんてことをリーダー自身がスローガンに掲げている組織なのですが、ある日、仲間がリーダーに一言、「やる気がでません」と本音を話しました。そう話した直後、リーダー自身とたんに不機嫌そうな顔になり、ため息をつきながら、語調は厳しく、「まあ仕方ないんじゃない?」と・・。

 誰がどう見ても「仕方無い」なんて思っちゃいないことが明らか。 これってダブルバインドですよね・・。

一番目に「なんでも話して」というメッセージを出しておきながら、二番目に非言語的な態度や表情で「わがままいうな!」という一番目とは矛盾するメッセージが出される。典型的な例だと思う。

 ダブルバインドの状況におかれた支配者は上記のウィキぺディアでは、

①言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
②言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型)
③コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

の症状があらわれると書いてありました。
 それを私的に簡潔に言うと、”自分の感情を押し殺したまま、一方的に支配者の感情や言い分を受け入れざるを得ない操り人形”になってしまうのではないかと思います。
 そこには主体性もなにもありません。主体性が育たないのであれば、そこに人間としての成長をはぐくむことも難しいでしょう。

 上記の”組織”において、”やる気がでない”と言えば冷笑され、かといって黙っていれば「なんで聞いてやっているのに話さないんだ」とばかりに、長時間続く沈黙の中での舌打ちや貧乏ゆすり、ため息がつかれます。支配される側がどういう行動をとろうが、支配する側の人間にとってはどれも気に入らないことだったのでしょう。
 
 ただ支配される側が受け入れられるのは、自身の感情や想いとは全くかけ離れた相手の意に沿うような”意志”を表明することによってのみのことなのです。

第3次禁止令によって、その場から逃げ出すことも、その場の構造自体に異議をとなえることもできません。

 本当なら、「なんでも話して」といいながら「わがままいうな」という構造自体がおかしいのですが、私がリーダーから受けている日常的な恩恵や、その場自身が「おれが話を聞いてやっているのだから」というような利害関係により、その場で「やる気がでない」という私の本音を話すことはわがままに感じられ、黙っていることすら私のわがままのように感じられてしまうのです。
 「リーダーがここまでしてくれているのに・・」という強制的に植えつけられた考えは、その構造に異を唱えることすら私のわがままのように感じ、結果私の全てを拘束してしまうのです。


以上長くなってしまいましたが、ダブルバインドについて私に私見を書いてみました。これからもっと深めていきたいと思います。

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