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"ダブルバインド"考察②

 もう少し考えてみた。
この”ダブルバインド”っていうのは新自由主義の構造ととっても親和的なものであると思う。

新自由主義における個人というものは、さまざまな規制やルールの撤廃により、みかけ上の平等の中で多様な選択肢の中から自ら行為主体として選択をし、その結果については”自ら選択したのだから”自己の責任となる、ということが原則として貫かれている。
 
 学校選択制の例がもっともわかりやすいので引用します。学校選択制は通学区規制の撤廃により、今では”全県一区”ということで、県内のどこの学校に行っても良いことになりました。このことは形式的には県内の全ての学生に平等が保障されたように見えます。しかし実際は、経済的困窮を抱えている家庭は、学費の高い学校には通えず、通学費用にしても、遠い学校は電車代がかかるのでやはり無理等の理由で結果的にその選択肢は限りなく制限される。

 このように、多様な選択肢の中から自らの選択することを求められながらも、実際上は困難を抱えている人ほど選択肢は制限されおり、その結果については”自ら選択した”のだから自ら責任を取りなさいというのが新自由主義の構造概念何だと思います。
 本当は自分自身の努力ではどうしようもない構造的な障害があるのにも関わらず、自己責任に転嫁される。そこでその構造について異をとなえることは、行為主体としての自らの責任を放棄してるとみなされ結果的に蔑視されることになる。生活保護の受給者やその受給条件を良くしようという人たちが”甘やかしている”と思われるのはそのせいでしょう。


ちょっと前置きが長かったですが、やはりダブルバインドと新自由主義の構造は似てると思いませんか?

学校選択制を例に挙げてみるならば、
①どこの学校に行っても良いですよ(第一次禁止令)
②貧しい人はそれなりのところに行くべきだ(第2次禁止令)
という実際は矛盾したメッセージが送られており
③その構造に異をとなえることも”甘えている”とみなされる。(第3次禁止令)

というような感じです。

このダブルバインドの状態というのはいうまでもなく、支配する側が圧倒的に優位な状態です。

 三度、学校選択制を例にとってお話しすると、学校選択制というのはいわゆる→支配者-行政、被支配者-家庭(学生)という広義のダブルバインドの状態であると考えられると思います。
 実際は、行政側が限られた教育予算を効率的に配分するために、底辺校は切り捨てて、優秀な学校に予算を重点的に配分したいという目的があるのでしょう。
 そこで、行政側が全ての学校に予算を配分しないことへの説明責任(アカウンタビリティ)果たすために、「私たちは、どの学校にも行けるようにと学区を撤廃した。そこで底辺校に行く生徒については自身の能力がないからだ」という論理を持ち出すわけです。

 こうしてみると、ダブルバインドというのは支配側がいわゆる説明責任(アカウンタビリティ)を果たすことができる構造も存在するのだと思います。

 ①のブログで書いた事例、リーダーに「なんでも話してくれ」と言われながらも実際は「わがままいうな」と態度で示されていることについても同様です。
 リーダー的には2番目の「わがままいうな」ということが本音なのですが、最初に「なんでも話してくれていいよ」と伝えているがために、周囲の人へは説明責任が成り立つし、正当化されるわけです。被支配側にある人が、「黙っている」「やる気がないと伝える」という行動をとって、リーダーにどんなに冷たくあしらわれようとその責任は支配される側にあるように見える。リーダー的には、「なんでも話してくれと寛容な態度をとっているのに、お前のその行動はなんなのだ。」と周囲の人にも自身の行動を正当化できるわけです。

 ダブルバインドの支配者側というのは意識的にか無意識的にはわかりませんが、非常に人間を支配する、操作することに長けた人間なのだと思います。もし無意識的に相手を支配していることに気づいてさえいないのであれば、それはとても恐ろしいことだと思います。
 願わくばこの世の中にそうした構造があり触れていないことを・・。
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