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青年と大人をつなぐモノ①

 昔、青年の仕事と働き方について考えるシンポジウムに参加したことがありました。そのシンポジウムでは、青年団体、労働組合、弁護士さんがシンポジストとして参加しており、青年の雇用を取り巻く様々な問題について討論がされていました。
 
 その討論の途中で「なぜ青年は今声をあげないのか」という話題に話が及んだ時、50代程の労働組合の専従活動家の方が、「今の青年は勉強もしないから権利意識が低い、そこが問題なんだ」という趣旨の発言をしました。その発言の最中や終わった後も、参加している青年を中心にどよめきが起きていたのを覚えています。そして直後に、シンポジストとして参加していた弁護士さんが、業を煮やして「それは違う!」と反論。その反対討論のおかげで会場にいた青年も気がすんだのか、安堵の表情を浮かべている人も心なしか大半を占めていたような気がします。

 しかし、働くことに困難を抱える青年に対して、もっとも近い存在であるべき労働組合専従活動家の発言に会場の全ての人が絶句する、どうしてこのような状況が起こりうるのでしょうか。
 
 横浜市立大学の中西新太郎氏は「若者たちに何が起こっているか」(花伝社)で「要するに、ここ20年間の社会、文化変動の結果、世代間ギャップが歴史上かってないほど深くなっている」と述べています。その中で中西氏は“消費文化”の浸透における“個体化”の進行について危惧を表しています。

 テレビも携帯もかっては家族で共有していたものが、現在では一人一台の時代に。こどもが何を見て誰と話しているのか大人はさっぱり知らない。インターネットやテレビゲームの登場でよりその傾向は強まっているという。
 このような消費文化の肥大は青年と家族(大人)との間に分断を進行させ、ひとりひとりの孤立化を促進させてきたといえます。

  こうした意識のギャップがあるがために、今大人の人たちと青年の間にはお互いに“理解できない”存在として捉えている。「なぜそんな行動をとれるのか」「なぜそんなことがいえるのか」お互いのそうした思いは、お互いへの不満となり鬱積していく。大人にとっては、理解不能の行動様式をとる青年を目前にして、自分たちの今まで通用していた常識が通用しないわけです。
 
 小柳晴生氏は「大人が立ち止まらなければ」(生活人新書)で以下のように述べています。
「方向性が失われた時に人々がまず最初にとる解決策は、過去にうまく行った方法をより強化することです。『ノスタルジック』な解決策にしがみつく段階です。しかし構造的にうまく行かなかった方法を、より強化してもうまく行くはずはなく、事態をかえってこじらせてしまいます。」
 いま、大人と青年との間に存在する”世代間のギャップ”についても、お互いがお互いを理解し合えず、大人の側が青年を理解できないがために、これまでの規範や常識を青年に当てはめようとする中で、かえって事態をこじらせる悪循環に陥っているのではないかと思います。

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