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青年と大人をつなぐモノ②

 個人的な意見ですが、現代の青年にはこれまでの時代を生きてきた人にはない、よりより社会を形成するための力が存在する、そんな風に思っています。こんなことをいうと“青年ひいきだ”と言う方もいるかもしれませんが、そう思わざるを得ないんです。
 
 そう考えるのも、自分の周りに素晴らしい仲間や友人がいたということももちろんありますが、それ以外になにより、これまでの世代の方々が学び闘うことで勝ち取ってきた歴史の恩恵があったからこそのことだと思います。
 ”闘う”という言葉を使ったので、ちょっと過激なものを思い浮かべる方もいるかもしれませんが、ここでいう闘いというのは、大人の方々の”良い社会を築きたい””自分の子どもには不自由させたくない”といったごく一般にありふれた人間としての”良心の存在”のことを述べたつもりです。前の世代の方々のそうした良心や、社会への異議申し立ての行動にいたるまで、その全てがあって、現在の社会があり、文化があり、私たちがいるのだと思います。
 
 そこまで考えた時にふと浮かんできた矛盾。もし、これまでの世代の方々が若い世代に対して、否定的にしか見ることができないとするならば、それほど悲しいことはありません。なぜなら、そのようなふがいない青年しか育って来れないような、大人の方々の築いてきた社会と言うものはその程度のものだったのか・・、そういうことになってしまうではないでしょうか。

 つまりこれまでの世代の方々が今の青年を否定するということ、それはその世代の方々のそれまでの闘いや良心すら否定するということにもつながるのではないかと思うのです。
 確かに今の社会の表面だけ見れば、社会のあらゆる場面に深刻な実態が広がっているように見えますし、果たしてこの間、「社会が進歩しているか」と問われた時に、素直にそうだといえないような情勢ではあるかもしれません。しかし、大変な情勢ではあっても、決してこれまでの年配の世代の方々の築いてきたもの、私たちが受け継ぐべき貴重な新しい財産は確かに存在する、そう確信しています。

 年配の世代の方々が築き上げてきた“新しい財産”の内容の話はまた今度にするとして、今、年配の世代にお願いしたいこと、それは、現代の青年たちを見て、そのふがいない姿を嘆くだけではなく、その積極面をみてほしい。現在の青年の中に鼓動する、現在の社会をよりよいものに変革していける条件というものは、それこそ、この社会を変えるためにたたかってきた人たちにしか、見つけてあげることはできないものでもあるのではないでしょうか。もし青年の姿を注意深く見ても、そうしたものをみつけられないのであれば、せめて受け入れてほしい。きっとその受容こそが、更なる新しい条件を形成していく若い力の源泉となっていくことでしょう。

 そして忘れないでほしいこと。それは、このように若い世代の姿を信じ、肯定していく作業こそ、先人たちの自分たちの戦いの歴史を肯定することにもつながるんだっていうことを。


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