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"できる"ことと”できない”こと

タイトル通りだけれど、ある時期人に対して”できる”人と”できない”人に二分するその見方にとても嫌悪感を感じる時期があった。きっかけはとっくの昔に忘れてしまったけれど、自分自身”できないこと”があまりにも多いから、自分自身のできなさを言い訳したいがためにその見方自体に嫌悪感を感じていたのかもしれない。

 でも世の中には多いと思う。”できる””できない”だけで人を見ていることって。まあ自分自身他者に対してそういう見方をするんですけどね・・。前の記事で書いたストライクゾーンの話だって、自分自身がもしかしたら一番ストライクゾーンを狭めているのかもしれないし。

 ただ、”できる”と”できない”だけで人が評価される時、”できない”と評価された人はいったいどうしたらよいのでしょうか・・。”できない”で済まされてしまうそのこと自体に疑問を持っていました。「自分は”できない”からもっと努力しなきゃ」と思える人はそれで済むかもしれないけれど、「どうせ自分なんか努力しても無駄だ・・。」と思う人もいるかもしれないし・・。
 
 そもそも、”できる”ことが良いことで”できない”事が悪いことという前提自体がまちがっているのだろうと思う。ただそれを乗り越えた人間観というのが自分の中で築けなかったこともあって、そのことで悩んでいた時に、苦肉の策で思いついたのが、「どうせ”できる””できない”観から逃れられないのなら、他者を目前にした時に、できるだけその人の中の”できること””良い所”をたくさん見つけてあげられるような人間になろう!」ってことでした。

 以下の引用は、その過程でであった本の一文です。今でも人をどうみるかというところの根本的な答えは出ていないんだけれども・・。




 『障害児を育てる』  茂木 俊彦  国民文庫  P48~50

 「それでは、発達のもう一つの側面とは何でしょう。それは、今もっている能力をいろいろな場面で、いろいろな人を相手に発揮できるようになったり、同じ場面で同じ人を相手にしても、することの中身が豊かさを増してきたりすることだといってもいいでしょう。

 お子さんを学校に通わせていると、家ではできるのに学校では出来ないという行動がときどき認められます。家ではいくつもの言葉を発するのに、学校ではほとんど言葉を発しないなどというのはその例です。逆の場合もあります。学校では給食をほとんど全部食べるのに、家出は偏食がひどく、決まったものしか食べないといった具合です。

 言葉の例でいうと、お父さんやお母さんを相手にしてだとうまく呼吸があってことばが出せるけれども、学校だと先生も、他のこどももたくさんいて、多くの刺激がありすぎて上手く調節が出来ず、言葉が十分に出せないこということであるかもしれません。
 食事の例でいうと、学校では先生も絶対食べさせようとするし、他の子どもも食べているので食べるけれども、家ではそれまでの習慣もあり、甘えもあり、お母さんもすぐあきらめるしで食べないと言うことであるかもしれません。

 こどもがこういう状態から脱し、学校でも家でもできるようになるなどの場合を考えて見ましょう。違う場面で違う人を相手にして話せたり食べられたりするようになること、これは発することばの数や食べられる食品の種類についてだけを考えれば、取り立てて進歩しているわけではありません。より高いレベルの能力を身に付けたかと言えば、そうではありません。けれどもこどもは話す力や食べる力を膨らませている、より確かなものにしていると言えるでしょう。

 今持っている力を膨らませ、確かなものにすること、これも発達なのです。

・・・こどもは上に向かって伸びていかなくても横に向ってその力を膨らませたしかなものにしているのです。」

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