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居場所と社会参画の間③

 組織や集団の在り方について考えることが多い毎日・・・。
ここ数年の間に考えていることは、組織や集団の”理念”と”多様性”についてです。

たとえばある立派な”理念”を掲げている組織集団があったとします。たとえば、「差別をしません」「貧困をなくします」「いじめは許さない」とか、それぞれいろいろな分野でこの世の中を良くしようと頑張っている人たちがいる。そうした人たちは、本当の意味で世の中をよくしたいと思う気持ちから、自分たちの理念やそれを実現する筋道まで一生懸命学び・研究し、実践することで、問題を解決していく自分たちなりの”答え”を見出していく。それと同時に、自分たちの活動の在り方やひいてはその活動をするにあたって求められる力、なるべき人間像まで明文化されているような組織集団ももしかしたらあるのかもしれません。

 私が違和感を感じるのは、その組織集団の理念が崇高なるがゆえに、その組織集団のさまざまな部分で”多様性”が奪われるのではないかということです。
 
 矛盾するようですが、ある組織集団において”理念”が崇高であり、明確であること自体は喜ばしいことだと思います。当たり前のことですが、”理念”なるものがあいまいなものであったらその組織集団の隊列や統制がとれなくなるし、その存在意義すら揺らいでしまうこともあるからです。

 ただ問題なのは、その組織集団の存在意義や理念を守ろうとするがゆえに、時に本来の理念からはずれたものになっていってしまうということがあるのではないかということです。

 たとえば人権擁護の集団において、人権差別の対象となる人たちへの見方の見解の違いから、相手をののしってしまったり、いじめをなくそうと精力的に取り組んでいる親たちの集団が、いじめをなくすことに非協力的な親たちを排除したり、いわゆる”大義”を見失った行動にいつの間にか走っている、そうしたことに少し自覚的になる必要性があるのではないかと思うのです。

 ただ、これも当たり前のことですが、現在の日本の中でというか、そもそも異なる人格をもつ人間が集団として活動していくことはそもそも難しいことだと思っています。そして日本のように、市民運動が後進的であり、抑圧されてきた歴史を持ち、数も少なく、公的機関や企業・一般市民からの財政的な支援も限られている中で、取り組んでいくことは私自身が考えるよりはるかに困難があるのかもしれません。
 
 それでもやはり私自身、こうした組織集団や市民運動の中に、一定程度このような理由で足を踏み入れにくさを感じることは事実です。もしこのことが私だけが思うことではないとしたら、この部分を改善していかない限り、それぞれの活動の幅が広がっていく可能性が少なくなってしまうのではないかと思います。活動の側が、湯浅さんのいうような”幅の広さ”をもつためにしていけることを私自身模索していきたいと思います。
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