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社会が求める人間像

いま、この社会情勢の中で、いったいどういう人間が求められるのか、そんなことを考える機会がこの間何度かありました。
最初に、こんなことを考えるきっかけは、ある後輩から聞いた話でした。


-就職活動の面接の場面で-
大学4年生の後輩が、この前教員採用試験の面接を受けてきたのですが、その県では面接官を、民間の企業の方にも委託していました。その企業出身の面接官は後輩に卒論の内容について聞いてきたそうです。後輩は、卒論は母子家庭について調べていたので、母子家庭の貧困の状態とその援助の必要性を語ると、面接官は「ぼくはそうは思いません」とのこと。母子家庭でも、不正に公的援助を受給している人たちもおり、甘えているのではないか、と語ったそうです。
 後輩にとってはまさか言い返されるとは思っていなかったらしいのですが、ただ面接官の考えには賛同できなかったので、自分の考えを再び話したそうです。すると面接官の表情がどんどん曇っていき、最終的によい感じで終わることができなかったとのことでした。


-採用基準の不明瞭さ-
 この事例のように、企業や公務員をはじめとする採用試験を受けるに当たって、いったい何を基準として採用とするのか基準が明瞭でないと感じたことのある人はたくさんいるのではないかと思います。
実際に、経済産業省が05年に実施した「社会人基礎力に関する調査」では、新卒採用プロセスの問題点として「採用基準が明確でない」ことをあげた企業は15%にすぎないが、大学生では61%までがこの問題を指摘しているといいます。不透明な評価基準の前で若者が立ちすくまざるを得なくなっているのではないかと思います。


-ハイパーメリトクラシ-化と近代社会-
それでは、いったい現在の企業社会はどのような人材を求めているのかについて、『軋む社会-教育・仕事・若者の現在』(本田由紀・双風舎)に収録されている「ポスト近代社会を生きる若者の進路不安」という論文を参考に追ってみたいと思います。

本田氏はこの論文の中で、近代社会の特徴として次の3点を主にあげています。
特徴①グローバル化の進展
特徴②先進諸国の産業構造の変化
特徴③価値文化の多元化・多様性

グローバル化による異なる世界中のさまざまな文化との接点の拡大したこと、また基本的な生活財の普及については、第2次世界大戦後の高度成長によりほぼ達成されたため、産業構造の変化に伴う多品種少量生産化に併せるように社会構成員の好みやライフスタイルも多様化し、各個人がそれぞれの生き方を選択し模索せざるをえなくなった社会になっているということを指摘しています。

 近代以前の社会については属性主義(身分制度により人間は出生により一生の道筋が決定している)という社会でしたが、近代社会においては公正や効率の観点から望ましくありませんでした。
そこで近代社会では、メリトクラシー(個々人が過去に何をなしたか、これから何をなしうるかに応じて地位を配分)が幅を利かせるようになり、学校教育がその配分のための重要な役割を果たしてきました。 
 また、メリトクラシーにおいて計測され評価される能力というのは、認知的で標準的な記号操作能力(文字や数字、法則などを正確に適用し操る能力)を主としており、近代社会を構成する主要な組織においては、整備された指揮系統やルール、マニュアルなどにそって行為する官僚制の原理が支配的であり、そのような組織においてはこの種の能力がもっとも有効であったためとされています。
 
 ポスト近代社会においてはこうしたメリトクラシーのみならず、ハイパーメリトクラシーが現出しているとしています。ハイパーメリトクラシ-とは非認知的で非標準的な、感情操作能力とでも呼ぶべきもの、すなわりいわゆる「人間力」が、個人の評価や地位配分の基準として重要化した社会状態のことを指します。
 また、認知的な能力(頭のよさ)よりも、意欲や対人関係能力、創造性など、人間の人格や感情の深部や全体に及ぶ能力を評価の俎上に載せてしまうということで、従来のメリトクラシーよりもいっそう苛烈でむき出しのメリトクラシーであると指摘しています。
 近年では、企業や教育機関などの組織が新たな構成員を選ぶ際の選抜、すなわち採用試験や入学試験においても、またそれらの組織の内部における個人の位置づけや処遇決定の際にも、広範に観察されうるようになっているとのことです。

ex.日本経団連「2006年度、新卒者採用に関するアンケート調査」
企業が採用選考時に重視する要素は、過去4年間連続して「コミュニケーション能力」が第一位。

 大学のAO入試などでも、面接の際に意欲や問題意識をいかに示せるかが合否を左右します。また、企業や教育機関の内部でも、高い地位を獲得するためには、対人能力や交渉力、問題解決能力など、不定形で柔軟な能力が従来よりもいっそう重要化しているとのこと。
 ハイパーメリトクラシーが台頭している背景としては、上記のように産業構造の変化や、文化価値の多元化という事態のため。第3次産業や高付価値多品種少量生産の製造業が中核を占めるようになった産業構造のもとでは、高度な新規需要開拓能力と接客などルーティン的な対人能力が重要化してきているとのことでした。


-ハイパーメリトクラシ-が求める能力における格差の顕在化と対処策の不在-
以上、本田氏の指摘するハイパーメリトクラシーがもとめる柔軟な能力というのは個々人の存在全体に関わるもののため、それは一朝一夕には獲得しにくく、幼少期からの家庭内外での生育経験を通じて長い時間をかけて形成されるものであります。その際には個々人が出身家庭の内外にどれほど潤沢な経済的・文化的・社会的諸資源を有していたかが決め手になります。
 しかし青年期になって、その格差が明らかになっても、そうした諸能力の格差はまるで資質や性格のように、個々人に生得的・内在的に帰属するものだと受け止められます。
 このような格差を早期からできるだけ縮小するような施策や制度は現在の日本ではこうじられていません。それゆえ、ハイパーメリトクラシー的な能力の格差や不足は、放置された状態にあります。かつ”自己責任”の名において、スタートラインの時点で格差があるにも関わらず、結果はすべて自分のせいとおしつけられる。または、競争に負けた敗者は、社会に対して申し立てをするのではなく、「すべては自分の責任だから・・」と泣き入るしかない、そんな人間をつくりたいと目論んでいる人たちがいるのではないかと思います。

 話は戻りますが、後輩の面接官について、そもそも教員採用試験でなぜ民間の面接官に委託するのかがまったく理解できません。面接官のとった態度についてもそれが、企業社会がもとめる人間像を抽出するためのものなのか、それともまったく面接官の個人的な資質なのかはわかりません。ただひとつ思うのは、その県の教育に携わる方、教員養成に携わる方にもっと自分たちの行ってきた教育についてのほこりを持ってほしいと思います。自分たちがどういう教育を目指してきたのか、どんな子どもたちに育ってほしいかということでこれまで積み重ねてきたその経験を思い出せば、教員採用試験に民間の面接官を利用するなんて発想にはならないはずだと思います。そう、自分たちはどんな子どもたちに育ってほしいか、そうした初心を大事にしてほしいと思います。

 
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