生活と人間関係の商品化
★コンビニで出会った青年とのやりとりから
最近ずっと気になっていたことがありました。自分も一応まだ20代、だからというわけではないんですが、コンビニに行く機会は比較的多いと思います。コンビニで商品を買ってレジで会計を済ませる際に、対応してくれる店員さんは当然自分と同じくらいの若者ということが多いのですが、「お弁当あたためますか?」とぶっきらぼう問いかけられ、モノを乱暴に袋に詰め、お金を投げるように渡され、最後まで目も合わさない。同じ青年を批判するのは本意ではないけれど、さすがに「それはどうなの?」って思うときがこの間も度々ありました。
そうはいっても同世代だし、ほかの世代の人と比較すれば寛容になれるほうだと思うけれど、それでも病院事務として同じく会計を仕事にしている自分にとって見れば、やはり「もっと親切な対応できないもんかな・・」って思ってしまいます。
★青年のモラル、社会規範が低下している?
こうした事例は、この社会の中で比較的多く存在するかと思います。私が対応したコンビニの店員さんがたまたまマナーが悪かったということでなく、当然親切に対応してくれる若者の店員さんもいるかとは思いますが、同じように不快感覚える店員さんに当たったことのある人も多いでしょう。
こうした若者に関する批判に対して、そのすべてを若者の生得的な資質として批判する風潮は、私自身もっとも嫌うことのひとつでもあるんです。だからというわけではないんですが、こうした若者のマナーの悪さは、簡単に「若者のモラル、社会規範が低下した」ということで済まされる問題ではないと思います。これらの根本には、現代社会の、特に若者において”人間関係における商品化”というものが確実に浸透してきていることが原因ではないかと思います。
★現代社会に浸透する効率第一の人間関係
ところで、一番最初にお話した私が出会った店員さんもそうですが、きっと私をはじめお客さんのことを、まさしく”客”そして”消費者”としてとしか見ていなかったんだろうと思います。
お客さんへの親切な対応というのは、本来はあったほうがいいのだろうと思いますが、不可欠なものとはみなされていないのではないでしょうか。
そもそもこの資本主義社会での資本側が考える生産様式というものは、基本的には効率第一で、お金にならないことは労働者にやらせない。お客さんへの親切さや、人間味のある対応なんかは、直接の売買に関係ないのであるから、”無駄”とみなされてしまうのでが現実です。もしコンビニに一人暮らしの高齢のお年寄りが来て、店員さんが親切にその話を長い時間きいたりしていたら、それこそ経営者にとっては損なわけです。だから基本的には経営者は店員さんにお客さんに対する人間味のあることは求めていないんだと思います。経営者にとっては自分の店のモノが売れればそれでいいわけです。
そして店員さんにとっては、基本的には給料をもらうために働いているわけであって、お金をもらえるための最低限のことだけすればいいわけです。お客さんにとっても、自分の望む商品だけ購入できればいいわけです。
それぞれ、経営者も労働者も、お客さんもそれぞれ厳しい経営、生活の厳しさ、忙しさなどが相かさなって、それこそ効率第一の社会の中で、人間味のある関係が排除されモノを媒介としての関係しか残らなくなってしまった。そのことが、きっとコンビニの店員さんがとってしまった態度の根本的な原因の一つにあるのではないかと思います。
コンビニの若い店員さんのマナーの問題も、その店員さんの個人的な資質や若者の世代的退廃というところに原因があるのではなく、まさしく現代の社会の人間関係の貧困の現われとみるべきではないでしょうか。
★ひとつ昔の人間関係について
商品だけが媒介する人間関係でなくて、それとは違った人間関係というものが田舎の病院で事務員をしていると実感する場面があります。
田舎の病院では、患者さんや地域の方の優しさに触れる機会が多いです。野菜の収穫期になると「これたべな」ときゅうりや白菜やトマトやその他諸々食べきれないほど持ってきてくれます。夜遅くまで仕事をしていると、「あんた最近ちゃんとご飯食べてる?」とお弁当をもってきてくれたり、自分のうちでつくった梅酒を持ってきてくれる人、植物を持ってきてくれる方、本当に例を挙げればきりがないくらいです。
そういう人たちが決まっていう言葉があります、「いつもお世話になっているから」という言葉。こうした人たちは決して、医療費を窓口で支払わない人たちでは有りません。病院ではこうした患者さんの医療費はもらっています。診療の対価はしっかり頂いているわけです。だから本当はそれ以上のお礼など求めるべくもないのですが、それでも「日頃お世話になっているから」と次から次へといろいろなものを持ってきてくれるのです。
なぜ、患者さんや地域の人たちは、ここまでしてくれるのか?と考えた時に、ひとつのことが思い浮かびました。この人たちは、“物も買って、対価を支払う”というだけの関係とは別の関係の中で生きてきたんだなということでした。
今の時代、様々なものが商品化されており、お金で手に入らないものはまれというような時代になっています。ただ昔は、今ほど経済的にも豊かでなく、生活の中で商品が占める割合が決して高くない時代が確かにあって、自分たちで作った農作物を分け合ったり、物々交換をしたり、それこそ物を買うなんてことすらできなくて、貧しい中で人間同士の支えあいで厳しい生活環境をなんとか生き抜いてきた、そういう時代があったのではないかと思います。
また、人生における楽しみも、そうした物をわけあったり、助け合ったり、そうした行為にたいする感謝や「ありがとう」という一言を、明日からのいきる活力として生活してきたのではないでしょうか。貧しい中で、人生の楽しみを消費行動の中で見出すような生活環境でなく、ちょっと近所の八百屋さんや魚屋さんにいって買い物ついでに店員さんと世間話をしたり、途中でたまたまであった人と井戸端会議をしたり、そうしたことを楽しみにして生きてきたのではないでしょうか。
そうした中で生きてきた人たちだからこそ、「いつもお世話になっているからといろいろ尽くしてくれるのかな・・・なんて想像します。
きっと、地域の患者さんたちにとって、病院、病院の職員という存在は、自分たちに医療をしてくれるだけの人ではなくて、地域で一緒に生活をする仲間として捉えていてくれるのであろうと思います。だからこそ、世間話もしてくるし、物をくれるし、説教(笑)もする。このひとたちはこうして生きてきたんだろうと思います。それは、商品だけが媒介する人間関係よりもずっと人間味のあってあたたかい関係です。こうした人間関係に触れる機会をこの社会の多くの場所で築けていけたら・・そう願っています。
最近ずっと気になっていたことがありました。自分も一応まだ20代、だからというわけではないんですが、コンビニに行く機会は比較的多いと思います。コンビニで商品を買ってレジで会計を済ませる際に、対応してくれる店員さんは当然自分と同じくらいの若者ということが多いのですが、「お弁当あたためますか?」とぶっきらぼう問いかけられ、モノを乱暴に袋に詰め、お金を投げるように渡され、最後まで目も合わさない。同じ青年を批判するのは本意ではないけれど、さすがに「それはどうなの?」って思うときがこの間も度々ありました。
そうはいっても同世代だし、ほかの世代の人と比較すれば寛容になれるほうだと思うけれど、それでも病院事務として同じく会計を仕事にしている自分にとって見れば、やはり「もっと親切な対応できないもんかな・・」って思ってしまいます。
★青年のモラル、社会規範が低下している?
こうした事例は、この社会の中で比較的多く存在するかと思います。私が対応したコンビニの店員さんがたまたまマナーが悪かったということでなく、当然親切に対応してくれる若者の店員さんもいるかとは思いますが、同じように不快感覚える店員さんに当たったことのある人も多いでしょう。
こうした若者に関する批判に対して、そのすべてを若者の生得的な資質として批判する風潮は、私自身もっとも嫌うことのひとつでもあるんです。だからというわけではないんですが、こうした若者のマナーの悪さは、簡単に「若者のモラル、社会規範が低下した」ということで済まされる問題ではないと思います。これらの根本には、現代社会の、特に若者において”人間関係における商品化”というものが確実に浸透してきていることが原因ではないかと思います。
★現代社会に浸透する効率第一の人間関係
ところで、一番最初にお話した私が出会った店員さんもそうですが、きっと私をはじめお客さんのことを、まさしく”客”そして”消費者”としてとしか見ていなかったんだろうと思います。
お客さんへの親切な対応というのは、本来はあったほうがいいのだろうと思いますが、不可欠なものとはみなされていないのではないでしょうか。
そもそもこの資本主義社会での資本側が考える生産様式というものは、基本的には効率第一で、お金にならないことは労働者にやらせない。お客さんへの親切さや、人間味のある対応なんかは、直接の売買に関係ないのであるから、”無駄”とみなされてしまうのでが現実です。もしコンビニに一人暮らしの高齢のお年寄りが来て、店員さんが親切にその話を長い時間きいたりしていたら、それこそ経営者にとっては損なわけです。だから基本的には経営者は店員さんにお客さんに対する人間味のあることは求めていないんだと思います。経営者にとっては自分の店のモノが売れればそれでいいわけです。
そして店員さんにとっては、基本的には給料をもらうために働いているわけであって、お金をもらえるための最低限のことだけすればいいわけです。お客さんにとっても、自分の望む商品だけ購入できればいいわけです。
それぞれ、経営者も労働者も、お客さんもそれぞれ厳しい経営、生活の厳しさ、忙しさなどが相かさなって、それこそ効率第一の社会の中で、人間味のある関係が排除されモノを媒介としての関係しか残らなくなってしまった。そのことが、きっとコンビニの店員さんがとってしまった態度の根本的な原因の一つにあるのではないかと思います。
コンビニの若い店員さんのマナーの問題も、その店員さんの個人的な資質や若者の世代的退廃というところに原因があるのではなく、まさしく現代の社会の人間関係の貧困の現われとみるべきではないでしょうか。
★ひとつ昔の人間関係について
商品だけが媒介する人間関係でなくて、それとは違った人間関係というものが田舎の病院で事務員をしていると実感する場面があります。
田舎の病院では、患者さんや地域の方の優しさに触れる機会が多いです。野菜の収穫期になると「これたべな」ときゅうりや白菜やトマトやその他諸々食べきれないほど持ってきてくれます。夜遅くまで仕事をしていると、「あんた最近ちゃんとご飯食べてる?」とお弁当をもってきてくれたり、自分のうちでつくった梅酒を持ってきてくれる人、植物を持ってきてくれる方、本当に例を挙げればきりがないくらいです。
そういう人たちが決まっていう言葉があります、「いつもお世話になっているから」という言葉。こうした人たちは決して、医療費を窓口で支払わない人たちでは有りません。病院ではこうした患者さんの医療費はもらっています。診療の対価はしっかり頂いているわけです。だから本当はそれ以上のお礼など求めるべくもないのですが、それでも「日頃お世話になっているから」と次から次へといろいろなものを持ってきてくれるのです。
なぜ、患者さんや地域の人たちは、ここまでしてくれるのか?と考えた時に、ひとつのことが思い浮かびました。この人たちは、“物も買って、対価を支払う”というだけの関係とは別の関係の中で生きてきたんだなということでした。
今の時代、様々なものが商品化されており、お金で手に入らないものはまれというような時代になっています。ただ昔は、今ほど経済的にも豊かでなく、生活の中で商品が占める割合が決して高くない時代が確かにあって、自分たちで作った農作物を分け合ったり、物々交換をしたり、それこそ物を買うなんてことすらできなくて、貧しい中で人間同士の支えあいで厳しい生活環境をなんとか生き抜いてきた、そういう時代があったのではないかと思います。
また、人生における楽しみも、そうした物をわけあったり、助け合ったり、そうした行為にたいする感謝や「ありがとう」という一言を、明日からのいきる活力として生活してきたのではないでしょうか。貧しい中で、人生の楽しみを消費行動の中で見出すような生活環境でなく、ちょっと近所の八百屋さんや魚屋さんにいって買い物ついでに店員さんと世間話をしたり、途中でたまたまであった人と井戸端会議をしたり、そうしたことを楽しみにして生きてきたのではないでしょうか。
そうした中で生きてきた人たちだからこそ、「いつもお世話になっているからといろいろ尽くしてくれるのかな・・・なんて想像します。
きっと、地域の患者さんたちにとって、病院、病院の職員という存在は、自分たちに医療をしてくれるだけの人ではなくて、地域で一緒に生活をする仲間として捉えていてくれるのであろうと思います。だからこそ、世間話もしてくるし、物をくれるし、説教(笑)もする。このひとたちはこうして生きてきたんだろうと思います。それは、商品だけが媒介する人間関係よりもずっと人間味のあってあたたかい関係です。こうした人間関係に触れる機会をこの社会の多くの場所で築けていけたら・・そう願っています。
2009-12-03 19:36
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