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ドウデモイイヒト

本当は期待してる
本当は疑ってる
何だって 誰だってそうでしょ

”イイヒト”って言われたって
”ドウデモイイヒト”みたい

-「Boys&Girls」 浜崎あゆみ-

当時自分は高校生だったのかな・・
浜崎あゆみさんのこの曲を聴いたときに思わずドキッとした記憶がある。

この頃の自分は、とにかく周りの友人に波風たてないように、見捨てられないようにと生きていた。
自分は容姿は並以下、勉強も特別できるわけではなく、運動神経は中の下、特段面白いことを言えるわけでもなく、いわば普通、もしくは普通以下の人間だった。
だからこそ、友人関係の”見捨てられない”ために、懸命に気の利く人間、優しい人間を演じていた、いや演じざるをえなかったのだと思う。

ただ、そうした言えば”強制されたやさしさ”というものが、そうそうよい結果をもたらすわけではない。
心の底からの主体的な行動じゃないだけに、相手にとっても心から喜べるものではないと思うし、もともと深い人間関係が成立していない中で、本当のやさしさを発揮しようとしたときにどうしても一歩足を踏み出せない。
結局、その自分の中での強制されたやさしさに基づく行動それ自身が、周りの友人との間に、本当の信頼関係を築いていくことはないんだと、ある程度自分でも実感していた時期だった。

そんな中で、上記のような歌詞を聴いて、
「結局自分は、周りのみんなにとって”ドウデモイイヒト”なんだろうな・・」と宣告されたような気がして、ショックだった。

それから10数年経って、心理学ブームや水谷修さんの取り組みがメディアでも取り上げられる中で、「いいんだよ」という言葉も日常の中でよく聞くようになった。”自己責任論”生活の隅々に幅を利かせてきた数年間であったけど、それに対抗するように「いいんだよ」という言葉に象徴されるように、受容的な姿勢の大切さが、さまざまな分野で強調されてきたような気がする。
自分自身、「受容」的であることの大切さについてずっと関心を持ち続けてきた人間でもあるし、その有意性を実感してきた数年間でもあった。
ただそんな中で、「いいんだよ」「あなたはありのままのあなたでいいんだよ」という言葉について、ずっと疑問に思ってきた部分もある。

「いったい”何がいい”んだろう」

だめな自分を卑下する他者に対してこの言葉をかけるとき、いったい何を指して”いいんだよ”というのだろう。

自分自身、悩み葛藤する仲間を目前にして、「いいんだよ」と語ってきたことが何度かあった。
しかし、そのほとんどが、相手にとって気休めにもならなかったのではないかと実感している。

「あなたはいまのあなたのままでも、私にとってはかけがえのない存在、だからいいんだよ」
と本当に自分自身が相手に対してそう思えていたのか、という問いに駆られる。

「どうせわたしのことなんかどうでも”いい”んだろう!」
相手にそう思われたのではないかと不安になる。

自分は相手になにを思って「いいんだよ」と語るのだろう。


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