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9.19から1年~今改めて安保法制反対運動を振り返る~⑤

【相次いだ地方レベルでも若者デモ】

 SEALDsが毎週開催していた国会前行動、そして今紹介した若者憲法集会の参加者が集会と渋谷デモで体験した経験は、地方レベルでの若者デモが各地で開催される契機となっていきます。

 地方で若者が主体になって行われたデモで、先行して話題になったのが、2015年6月26日に札幌で開催された「戦争したくなくてふるえる」デモでした。19歳の若者が発起人となり、1週間程の宣伝で1000人の人を集めたことで、全国的にも話題になりました。

 また6月21日に開催された京都でのSEALDsKANSAIが主催したデモでは2200人が参加。毎週のように、日本のどこかで若者主催の安保法案に反対するデモが開催されるというのが、2015年6月から7月にかけての大きな特徴だったと思います。


【世代的な広がりをみせる運動】
 また、こうした若者のデモは、地方レベルでの拡散だけにとどまらず、世代的な広がりをみせたのも特徴の一つでした。

 安保法案が衆議院で強行採決された後の、8月2日。渋谷で高校生が主催するデモが5000人規模で開催されました。主催したのはT-nsSowl「Teens Stand up to Oppose War Law)」という、こちらは安保法制に反対するために立ち上がった高校生のグループでした。

 もともとは、SEALDsに加入を希望していた高校生たちが、年齢の関係上、SEALDsで活動することが認められず、自分たちでグル-プを結成したのがきっかけです。

 大学生が主体となったSEALDsに続き、高校生までが、安保法案に対して反対の声をあげるためにグループが結成される。こうした動きは、安保法案を反対する運動にとって大きな追い風となっていきました。


【変化する国会前の様相-SEALDsの国会前行動から-】

 全国に拡散し、高校生の間にも広がっていった安保法案に反対する若者の運動。こうした運動の成果は、めくりめくって、国会行動の様相も大きく変化させていきました。

 ところで、私自身が国会前行動に参加したのは、9月19日に参議院本会議で強行採決が行われるまでだと、6月12日/7月10日/7月15日/7月24日/8月30日/9月14日の計6回でした。たったの6回でしたが、私自身にとっては非常に大きな影響を受けた6回でしたし、何より全国の安保法案に反対する国民の運動の盛り上がりが国会前の光景として如実に表れていただけに、その変化を感じることができたということが、私にとって何よりの財産になりました。

ここでは、その3ヶ月の間に感じた変化の中で特に印象的だった点について触れておきたいと思います。


(1)安保法案反対の運動の高揚と共に急激に増えた国会前行動の参加者


 一つ目は、この3ヶ月の間に運動の盛り上がりと共に、国会前行動に参加する人数が飛躍的に増加した、ということです。

 私が初めて参加した6月12日の行動の時は、確かこの時の主催者発表では1000人程だったと思います。国会前の光景も、SEALDsの方々が集まっていた北庭エリア側の国会前のメインストリートの片側の歩道が途中まで埋まる程度で、若者が多くて驚いた印象は受けましたが、人数的には既存のデモなどと比較しても若干少ないかな・・という感じだったのを覚えています。

 その様相が変化したと感じたのは7月10日の私の2回目の参加の時でした。この日は主催者発表で国会前に15,000人が参加。国会前のメインストリートの歩道の両側が人で埋まっており、北庭エリアの周りでは車道にまで人がはみ出ている様子でした。

 7月15日の3回目の参加の際には、主催者発表で6万人。この日は歩道に置かれた柵を超えて車道の一部まで人で埋まっており、身動きするのも大変な状況でした。

 7月24日には7万人が参加。そして8月31日の包囲行動の際には12万人が国会前に集結。車道は完全に決壊し、国会正門前は完全に人で埋められてしまうという状況になっていました。

 わずか3ヶ月の間に、1000人規模の行動が、12万にもの人を集めるまでに発展した運動の高揚する様子が、たった6回の参加でしたが実感することができました。

 また、7月に入ってからは国会前行動に向かう人たちに対する、警察の通行封鎖が意図的に行われていましたが、8月30日の包囲行動の際には完全に決壊。
 8月30日の国会正門前で、警察が柵と人海戦術で必死に通行封鎖する所を、デモの参加者がT-nsSowlの若者を先頭にコールをしながら前進し、そして決壊させていくという出来事が起こり、動画でもその様子がいろんなところでアップされていましたが、まさしくその場面が、日本の民主主義が、国家権力の防波堤を打ち破る構図を象徴していたように思えて、自分自身思わず涙ぐんでしまった記憶があります。

 何にしろ、この3ヶ月の国会前における参加者の急激な増加と、それに付随して起こった出来事は、日本の歴史の後世にわたって語り継がれる出来事だったのではないかと思います。


(2)のぼりやプラカードからみられる、”市民”としての成長


二つ目は、のぼりやプラカードに見られた、参加者一人ひとりの”市民”としての成長と変化についてです。

 私が6月に一番最初に国会前行動に行ったときは、実はのぼり旗もプラカードもそれほど多くありませんでした。おそらく、国会前行動の参加者の多くが、既存の労働組合の構成員ではなかったり、プラカードなどを作った経験がない若者だったんじゃないかと思います。
 
また団体名がかかれているのぼり旗については、多様な個人が結集するSEALDsの国会前行動やデモの趣旨にそぐわないという意味合いで、暗黙の了解でのぼり旗は敬遠されていたこともあると思います。

 しかし、9月14日に私が6回目に国会前に参加した時に感じたのは、この時には、様々な団体ののぼりが所狭しと掲げられており、プラカードもSEALDsや団体が制作したものではなく、個人個人で制作したものがたくさん見受けられるようになっていました。

 この光景が示すところは、のぼりの数にみられるように、これまで平和運動に積極的に参加してこなかった団体が、今回新たに参入してきたということ。そして、様々な団体や個人が共に協力しあう形で結集したということ。そして、プラカードの多様性に見られるように、一人ひとりの個人が安保法案に反対する想いを、自分自身の頭で考えて、プラカードを作成し、自分の想いを掲げたということ。まさしくこの光景こそが、既存の運動団体が支えてきた屋台骨に、一人ひとりが自主的に固有の形で声をあげる”市民”として成熟してきた多くの国民が合流するという流れを象徴しているんじゃないかと感じたのを覚えています。

 まさしく日本国民の”市民”としての成長と変化の軌跡がこの3ヶ月の間に非常に目に見える形で実感できました。


(3)自主的に”場”を作ってしまった参加者の力

 三つ目に、国会前行動の参加者が独自で集会の場を作ってしまったという変化についてです。
 6月の最初の参加の時には、前述していますが、北庭エリア周辺のSEALDsの若者の周りではコールの熱気がありましたが、少し離れるとコールはほとんどされておらず、北庭エリアの様子を眺めているだけの若者が多い印象でした。
 しかし、この時も30分程すると、北庭エリアから離れた後方まで徐々にコールに参加する人が伝播するような形で増えていくという変化が見られました。

 7月15日に参加した時には、参加者が6万人という規模で集まったこともあり、主催者側の声がすべての参加者に届かず、コールが一部にしか伝わらないような状況でした。

 しかし、近くのスピーカーから主催者が行うコールが聞こえないために、コールに参加できなかった参加者は、自ら生声で、「戦争反対!」「憲法守れ!」と突然コールを始めたのです。最初は、突然のことに周りの参加者も驚いていただけでしたが、次第に1人・2人と同調する参加者が増え、次第にその一体で独自にコールを行うようになりました。

 驚いたのはそれだけではありません。突然コールを始めた人も、自分一人でいつまでも生声でコールを呼びかけられるわけではありません。おそらくそのように考えた参加者の中で、トラメガを持っていた人がトラメガを貸してくれたり、そして「誰かスピーチをしよう」と言い出す人、そして「スピーチをしたい」という人、がいつの間にか集まって、その場で即席の集会場ができてしまったのです。

 これができたのも、全国各地で同じような行動を行っている・行ってきた人たちの経験の賜物だと思います。足りないものを嘆くより、ないものは自分たちの手でつくる。そういう民主主義の胎動がいままさにこの場でうごめいているのを感じました。


 この間の国会前行動は、全国の安保法案反対の運動を通して、量とともに質的にも変化してきたということ、参加する人数が増加しただけではなく、一人ひとりが”市民”として成熟してきたその軌跡が国会前行動には凝縮されていたし、私自身この行動に参加する中で、肌でそれを実感することができたのが、私にとっての国会前行動の最大の収穫だったと感じています。

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