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”障害”という言葉の持つ意味②

【障害と能力の私的所有観】

私が障害の事を考える際にいつも怖いなというか、心がけているようにしていることがあるのですが、それは、障害者の方との間で起こる様々な問題を安易に”障害のせいにしない”ということです。


例えば、聴覚障害のある方が、病院で診察のアナウンスを聴き逃してしまったり、身体障害のある方が転んでしまったり、視覚障害のある方とぶつかってしまったり、知的障害のある方と意志疎通がうまくいかなかったり・・
 

 こうしたトラブルがあると、ついつい私たちは「障害があるからだ」と決めつけがちです。しかし、これらのトラブルを一概に”障害”のせいと言えるでしょうか。診察のアナウンスにしても、もしかしたら待合が騒がしくて聞き取れなかったのかもしれないし、身体障害のある方が転んでしまったのも、道が悪かったのかもしれません。視覚障害のある方とぶつかったのも、ぶつかった側の注意不足かもしれないし、意志疎通にしても、自分の話し方が不適切だったのかもしれません。


もともと、人のこうした生活を営む上での能力というものは各個人に備わるだけにとどまらないものであるし、障害を持っていたとしても周囲の人の関わり方の如何でそれは障害のままでありもするし、簡単にクリアできるものもたくさんありうると思うのです。


このように能力の共同性というものを差し置いて、何かトラブルがあるとすぐに”障害のせい”と決めつけがちな風潮には本当に気をつけなければならないと思います。それはあらゆるトラブルに関して、「私が障害をもってるから悪いんだ」と障害者の方々に自己責任という形で引き受けさせようとすることであるし、結局は障害者の方々の自尊心や可能性をも奪い去ってしまうことにつながるからです。


【世界の障害の捉え方】

そもそも、一歩他の国にでてみると、障害というものの捉え方について大きな違いがあります。
 昔読んだ本の中では、ノルウェーだったかな?は国民の1/4は障害者だそうです。国として1/4の人に対しては、生活上で何かしらの困難を抱えているということで、支援する体制を整えているし、それが社会的に合意されているのです。だからこそ、日本みたいに”障害を有している”ということが当事者に与えるネガティブな影響はきわめて少ないそうです。

あと、これは障害とは直接関係はないのですが、イギリスの生活保護の話をしたいと思います。生活保護の受給というと日本では”恥”だと思っている人が多いですが、イギリスでは生活保護の受給に対して”恥”と捉える人はいないそうです。なぜなら、生活保護の受給者は国民の1割もの多くの人が受給しています。

 また、日本では、生活保護水準の世帯の方が実際に生活保護を受けている割合・捕捉率は、そうした”恥”の意識もあってか、1~2割だったかと思います。それに対して、イギリスでは9割程度でほとんどの方が生活保護を受給しています。そして、生活保護水準で暮らす方が、ちゃんと保護を受給できているかについて政府がしっかりと捕捉しているかを、調査の公表を義務付けて国民の側で監視までする徹底さです。

きっと西欧の国々では、生活保護であれ、障害であれ、そうした方々を国として支援することにが当たり前の権利だと考えているのだろうと思います。こうした社会制度の体制が人々の意識のレベルでも与えている影響はかなり大きなものがあるのだろうなって思います。


【障害に対する公的支援の充実を】

 日本でも、発達障害者支援法や特別支援教育の実施によって前述したように、これまで障害を持ちながらも何の公的な支援を得られなかった人たちに対して陽があたるという良い点もありました。しかし、これらの制度に共通しているのは理念は立派だけれども、それを実現するための財政をはじめとする条件整備のための公的支援がほとんど皆無に等しいこと。制度の運用についても、実際は現場の職員・先生たちの熱意でなんとか運営されているというのが現状です。

 本当は、これらの制度が公的な財政をはじめとする条件整備が整っていれば、教育や福祉の現場で様々な創意工夫をすることが可能になり、そこから障害のある方々の人生を豊かにする様々な知見が生まれるはずです。そうなれば、こうした現場の人たちがつかんだ経験を多くの人々と共有することで、当事者の中にも「あぁ、障害があってもこうすれば豊かに生きることができるんだ・・」という安心感が得られ、自身の可能性について自ら閉ざそうとすることもなくなるでしょう。


 そう考えると、日本において”障害”という言葉が当事者にとってネガティブな影響を及ぼしうる最大の原因は、国として障害に対する支援が不十分なところに最大の原因があるのではないかと思うのです。


繰り返しになりますが、”障害”という言葉は障害を有する人たちを別くくりにして差別化するためにあるわけではありません。”障害”というものを正確に理解し、適切な支援を受けれるように、障害を持っていても豊かに共に生活していける社会を築き上げていくためにこそ、障害という言葉は生まれたはずなのです。

”障害があるから”と障害を有する方が可能性を自ら閉ざしてしまいがちな現代の日本の状況は早期に改善されなければなりません。そのためにも、障害に対する公的な支援がもっともっと充実させるように声を大にして求めていかなければならないなって感じました。
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