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”怒る”or”怒らない”

このエピソードは1回書いたことがあったかな?

【中学時代の想い出】

 私が中学生の時、サッカー部に所属していた私は授業が終わった後にいつもどおりクラスの仲間と部活に行こうとしていた。自分の教室を出て部室に向かう際、ふと隣のクラスを覗き込んだら、同じサッカー部の仲間のAが机に顔をうずめて座っていた。私と同じクラスの仲間はAのいる教室に入り、「なにをしてるんだ」と聞いたところ、Aは顔をあげて、その顔には涙がにじんでいた。どうやらAは担任の先生にこっぴどく怒られ、しまいには竹刀で叩かれたらしい。「またか・・」私たちは顔を見合わせてため息をついた。というのもAのクラスの担任は“暴力教師”としてもっぱら評判だからだ。生徒に対して理不尽なことで怒ったかと思えば、最後にかならずお気に入りの竹刀で叩くのがおきまりのパターンなのだ。


 Aには気の毒だと思うが、生徒がとやかく言ってどうにかなることでもないと思っていた私たち。Aをなぐさめて一緒に部活に連れて行こうとしたその時、突然怒鳴り声が聞こえた。「おまえらなにやってんだ!」と例のAの担任である暴力教師が教室に怒鳴り込んできた。私たちは驚きながら立ちすくんでいると、Aの担任は再び大声で「何をやっているかと聞いているんだ!」と問い詰めてきた。それに対して仲間の一人が「Aが泣いてたんで様子をみにきたんですけど・・」と応えたところ、Aの担任は、「他のクラスに勝手にはいってくるんじゃねぇ!」といつものごとく理不尽なことを言ってきた。あまりにも理不尽な言動に私たちは驚きながらも内心「Aの担任だから」ということであきらめを感じていた。

 
その後、Aの担任の指示で全員廊下に正座をさせれていた。理不尽だと思いながらも「正座だけですむなら・・」と、理不尽な言動に抵抗するより、早くこの場を去りたいと、Aの担任の言うことに逆らうわけでもなく黙って正座をしていた。
 

【忘れられない冷淡なまなざし】

 ちょうど私たちがそんな風に正座をさせられている時に、私のクラスの担任が丁度通りかかり、正座をしている私たちを発見するや否や、「一体何事だ!」と聞いてきた。私たちが答える前に、Aの担任が「○○先生、こいつら勝手に私の教室に入ってきたんですよ!」と答えた。それに対して私の担任は、私たちの方を見つめて「お前ら、何をしてくれたんだ!」と厳しく怒鳴ってきた。その目は冷たく、相手を心底さけずむような視線だった。あの目はおそらく生涯わすれないだろう。それくらい非情な視線だった。

ことエピソードが原因かどうかはわからないが、私自身、他者に対して怒りをむき出しにすることが大嫌いだ。怒りをむき出しにして相手に伝えることが、相手に与える影響を少しは理解しているつもりだと思う。


【”怒る”or”怒らない”?】

 ただ、客観的にみると、上記の私の中学時代のエピソードのような理不尽な怒りもあるが、世の中には“怒る”ということが必要なときもある。大雑把にいうならば、“必要な怒り”というものもあると思っている。例えば、まっとうな教師が生徒の成長を心底願うあまりについつい怒ってしまうというような類の怒りである。


 ただ、今述べたような“必要な怒り”もしくは“理不尽な怒り”というものの境界線は極めてあいまいだと思う。具体的なケースごとに「この場面は怒った方が良い」「この場面では怒らないほうが良い」のいずれかを判断しなければいけないとしたら、きわめて難しいし、私自身、自信をもってその判断をすることは到底不可能だと思う。


【岩川直樹さんの論文から】

昔からそんなことを考えていたが、最近読んだ岩川直樹さんの「まなざしの現在」(演劇と教育No.641号)という論文で以下のようなことが書いてありました。


【”存在”への関心】

「叱ることも褒めることも、大人はその子どもの存在に関心があることを示すために用いるべきだ」

これは野口晴哉の言葉を引用して述べたものであるが、叱ること・褒めること、この場合は怒ることの是非について、その行為の主体(怒る側)が対象(怒られる側)に対しての“関心”の有無によって決まるというその考え方はなるほどなって思いました。

 私はこれまで叱ること・褒めることの是非を決定するその材料は、対象の行った行為によってのみ判断されるものだと思っていましたが、主体の関心によって左右されるという考えを持ったことはありませんでした。

 よくよく思い返してみれば、中学の時の私たちの担任が私たちに向けたあの視線には、間違いなく私たちへの関心は感じ取れませんでした。想像ですが、きっとあの時担任の関心事は私たち自身に対するものではなく、自分のクラスの生徒が他の先生に怒られているいう事実が自分自身の名誉やプライドにどんな影響を与えるのかという懸念といった類のものだったのだろうと思うのです。きっとAのクラスの担任が私たちに対して理不尽な怒りをあらわにした理由もきっとそんなところだったのでしょう。


【”存在への関心”から生まれる”自発性”】

前述の論文の中で岩川さんは以下のような指摘もしています。

「むしろ結果を他人と比較するような『お手軽』な見方を捨てて、その子どもに固有の葛藤や願望ともっと向かい合うべきなのだ。そういう存在そのものへの関心を向けられるとき、はじめてうまれるその子どもの自発の動きがあると、野口は考えていたのだといっていい。」

 私なりに上記の指摘を解釈すると、おそらく、人が誰かを怒る際、“怒る”or“怒らない”ということはあくまで副次的な問題で、それよりも大事なのは対象に対する“関心”の有無であるということ。対象に対して“関心”を向けているのであれば、“怒る”“怒らない”といういずれの選択を取ったとしても、対象は主体に関心を向けられていることを感じ取り、その関心はもしくは“期待”や“信頼”と言い換えてもいいのではないかと思うのですが、主体的に自らの行為を見つめなおしながら成長していく糧となる。きっとそういうことなのだと思います。


【”叱言以前”】 


確かに、主体の関心の有無以前に、対象の行った行為の内容如何で、“怒る”という判断をしなければならないときもきっとあるでしょう。ただその際にも、対象への関心、その固有の葛藤や願望に向き合うことを大切にしなければならないことには変わりはないと思います。

 今、この世の中で表現される“怒り”の多くが対象への関心を欠いた、怒る側の一方的な理由(地位・名誉・誇り・周囲への評価・怒りの感情の吐露)でのものであるような気がしてなりません。

 岩川さんの論文にもありますが、『叱言以前』、他者に怒りを感じた際に叱言以前に、自分自身のまなざしを問い直す必要があるのではないかと感じました。

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