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人生の岐路の意味

最近本当に頭が固くなったなあ・・って思う。人やモノや社会に対するモノの見方が表面的であったり、斜に見ている実感が自分自身としても感じる。


多分、自分がそうなってしまったのはいわゆる”年齢”のせいでもなく、単に勉強しなくなったからというわけでもなく、”濃密なコミュニケーション”をする機会や場をなくしてしまったということが最大の原因だろうな・・て思う。


大学時代のように、いろんな社会問題に対するそれぞれの見解や、様々な考え方をもった仲間がいろいろな目標に向かって議論する。そういうことを積み重ねてきたあの時期だからこそ獲得しえたものがきっとあったんだろう。


残念ながら、人の能力というものは貯金箱のように一回入れればそれが永遠に保有されるわけではない。移りゆく自分自身の時間と共に共有される社会環境の中で、その能力は常に可変的あり、良くも悪くもなっていくのだ。


もうあの時の集中力や創造性はないな・・と感じる。人と話している時に頭の中に浮かぶのは、自分自身がわくわくするくらいの新しい知見や創造性ではなく、ただただ疲労感と無力感なのだ。



そういえば昔、自分自身が様々な悩みや問題に直面した際、判断に迷った時に自分に心がけていることがあった。それはある事柄に対して良いか悪いか、または正しいか正しくないか判断に迷う時は、”その命題自体を疑ってみる”ということ。


人生というのはいえば”選択”の連続だと思う。右に行くべきかそれとも左に行くべきか・・でもどちらの道も自分にとっては未来がなさそうにみえる・・。そんな選択の場面にきっと誰もが直面するだろう。


当たり前だけれど、人生っていうのは自分一人でゴールまで辿り着く、孤独なマラソンではありません。自分の背中を押してくれる友人もいれば、それを見守る家族もいたりする。しかし逆に、私欲や名誉のために、あなたの行く末を阻む人間だって存在するのも事実。


あなたがマラソンを走っている際に直面する問題や困難は、そうしたあなたの行く末を阻む人たちによって、意図的に設けられたものであることは少なくないと思うのです。あなたがまっすぐゴールに向かって走っている時に、あなたにとっては不毛な分岐路を選択するように強いる人たちがいるのであれば、あなたはどちらの道も選ぶ必要はないのです。


きっとそんな時にはあなたは分岐路自体の存在を問い直すべきだと思います。分岐路の存在自体を問い直すことで、それまでは見えなかったあなたにとっての最善の道が見えてくるのであろうと思うのです。



今のこんな社会の中で、多くの人々が本来なら抱え込まなくても良いような不毛な選択を、一部の特権階級の私欲のために余儀なくされているんじゃないかと思う。


もっとそれぞれの人生にとってポジティブな意味での選択を積み重ねて成長していけるようなライフコースを描けるような社会に・・と切に願うのみです。






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