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サーチライトと尊厳

「子ども理解のための十二の月の物語-教育臨床の立場から- 横湯園子著 新科学出版社 より」
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隅々までを探索するがごとくに照射するそのようなまなざしを、私は「サーチライト性」と呼ぶことにしたのでした。  人間は他人の視線にさらされることのない秘密の領域が保障されることによって自分の中に居場所を作ります。子どもも同じです。そこに触れ、そこに語りかけ、そこからインスピレーションをもらい『内』と『外』を生きています。  もしそのような居場所、そのような内面の秘密が許されなかったら、私たちはどのように自分を守っていったらよいのでしょうか。全てがサーチライトによって探索され照らし出されたなら、私たちの自意識はどうなるのでしょうか。拷問に等しいのではないでしょうか、だから、子どもたちもそのような大人からは身を離すのだと思います。
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一つ前のブログでも”サーチライト”という言葉を使いましたが、ここで横湯さんが述べているように、人は心の中に誰でも秘密というものを抱えています。人のそうした部分にサーチライトを当て、強引に目の見えるところに引っ張り出すというようなことにはどこまでも慎重であるべきではないかと私は思います。

 もし、秘密とされる部分が他者に話されるようなことがあるとすれば、そこには必ず本人の”選択”が存在するべきでです。もし強引にその秘密の部分がサーチライトを強引に照射することによって明らかになったとして、そこに本人の選択の余地はなかったのであれば、それは本人の意思を尊重しない侵害行為が行われたに等しいのかもしれません。

 表向きには、秘密の共有が出来たとして関係が発展したと思われるかもしれませんが、深部のところでは不信感が募っている可能性が高いですし、相手の意思を尊重しないその関係に未来はなさそうです。

 相手の秘密の部分、もっと具体的にいえば、相手に言えないような意見や価値観の相違なども全てが目に見える形で共有されることになるとすればそれはどこまでも良いことだと思います。しかし、そこに本人たちのそうした秘密を共有したいという意思がないのであれば、その秘密の共有することについての価値は薄らいでしまうと思うのです。

 相手のそうした秘密の部分を尊重すること、表舞台にでてこないことを待つことが時には互いの誇りを大事にし、信頼関係を深めることになる。そしてそのことが次に互いの秘密を共有するきっかけになるかもしれないし、関係が深まっていく契機にもなる。

 人はいつだって互いのことなんでも知っていたいと思うし、それ自体は悪いことではないと思うし、互いの関係を深めていく努力はどんな時でも必要不可欠だと思います。しかし、時に見守ったり、待ってみたりすることが必要だと、そんなプロセスも存在するのだということも、しっかりと認識していたいなって思います。
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