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若者と政治・選挙④

前回は若者の政治的関心と教育の関係について書きました。今回は若者の政治的関心を家族の関係の中で探ってみたいと思います。


 家族間の中で、若者が一番強い影響をうけるのがやはりその当事者の両親だと思います。今の若者を15~34歳の若者と定義するのであれば、その両親は大体40~60歳の間の方々になると予想されます。現在40~60歳の方々といえば西暦でいうと1950年~1970年の間に生まれていることになります。政治的な意識の関係でこの世代をとらえた時に一般的になんて呼ばれているかというと”しらけ世代”または”新人類”などと呼ばれていた世代でした。

 ”しらけ世代””新人類”と呼ばれる世代がどのような特徴を有しているかについては以下とおりです。(ウィキぺディア参照)

オイルショックが起きて高度経済成長が終わり、あさま山荘事件が起きて学生運動が急速に衰えると、一つの時代の終わった無力感と学生運動への失望を背景に、「シラケ」という言葉が若者の間で流行し、「無気力・無感動・無関心」の三無主義を中心とする風潮が見られた。何をしても言っても「しらける」「しらけた」を連発し、冷めており、政治的な議論には無関心になり、一種の個人主義に徹する傾向が強くなった。

とあります。こうしてよくよく考えてみると、選挙での投票率は別として、若者が政治的に無関心というのは別に今始まったことではなくて、強弱はあるにせよ、かなり昔から進行している現象なんではないかと思わざるをえません。

 どちらにせよ、現代の若者の親世代というのは上記の”しらけ世代”の方々であり、親自身も政治的な関心を失っていることが若者の政治的関心の薄さに影響を及ぼしているということは間違いなくあるのではないかと思います。


 また、子どもにとっての大人のかかわりの重要さについて、その市民的成熟に関して岩川直樹氏は以下の用に述べています。

 「乳幼児や学童をはじめとした子どもたちの中には、いまだ自らの「声」を発する基盤を持たない子どもたちもいる。「子どもの貧困」は多くの場合、そうした「声にならない声」を聴こうとする姿勢をもつ大人たちの共感的理解と問題意識を媒介にして、初めて社会の中にそのリアリティが開示されていくものでもある。  私たちの社会が「貧困をつくる文化」から「貧困をなくす文化」にその編みなおしを行っていくためには、子どもの傍らに生きる多種多様な大人たちの優しさや怒りに媒介された「声」が、社会に向かって開示される場や関係がいたるところに創出されるべきなのだ。そうした関係や場は、こどもの「声にならない声」を自己の「声」を媒介にしてよびかけようとする主体と、その「声」を聴き届けようとする主体の応答関係においてはじめて成立する。そのような大人たちの応答関係にふれることを通して、子どもたちはやがて公共圏に立ち現われる自己自身の人間的・市民的成熟の土台をエンパワーしてゆくものなのだと思う。」
 
「月刊 全労連2010.2月号 岩川直樹『子どもの貧困を軸とした社会の編みなおし』」

 上記のところで述べられているように、子どもたち自身の人間的・市民的成熟の土台を支えていくためには、大人によってその「声」が聞き取られる必要がある。しかし現代の社会というのは、そうした子どもの傍らに立つ大人たち自身を疲弊と孤立と矛盾の中に追い込む文化でもある。とてもじゃないが、大人の側が子どもの声を聞き取るだけの余裕があるとは思えません。

 大人の側の余裕なさが大人自身と子どもにとってどのような影響を及ぼしているのかについて袰岩奈々氏は「感じない子ども心を扱えない大人」(集英社新書)で以下のように述べています。

 「仕事の場で要求されるのは、私的な感情を交えない、クールな対応だ。何があっても動揺せずに、問題解決することが有能な証なのである。  たとえば、上司からの仕事の指示を出されたときに『あんな言い方しなくてもいいのに』と腹を立てたり、『あーっ面倒だな』とうんざり感にとらわれていたら、スムーズに仕事は進まない。当然、感情にとらわれないように、私的な感情は切り捨てながら、とにかく言われたことはこなそうとするのが仕事だ・・    自分が本当にしたいこと、望んでいること、大事に思っていることが、押し寄せる『仕事』という大波に飲み込まれてしまう。それは、自分の感情や感覚が、効率第一主義の社会の中で押さえ込まれてしまっている状態だと考えられる。  そして、この『感情よりも効率』『テキパキとすすめることが大事』という、仕事の世界で当たりまえになっているものが、家庭の中に持ち込まれ、当然のこととなっているのがいまの日本の社会の現状だ・・  帰ってくればくたくた。子どもを早く寝かせなくては、明日の準備もある、片付けもまだ終わっていないという中で、子どもの『あのね、今日ね』の声に耳を傾けるなんてことはできない。」
 このように大人自身が毎日の生活でいっぱいいっぱいであり、日常の子どもの話さえ聞く余裕すらないのが日本の現状だと思います。こうした中では、子ども自身の中に何か政治や社会に関する”問い”などが存在したとしても、それが大人から適切な形で応答され、さらなる関心や意欲につながることはまれでしょう。

 そうした”問い”などは、余裕のない大人によって「そんなことはどうでもいいでしょ」と一蹴されて、なにか日常生活においてそうした”問い”や”疑問”を持つことが逆にいけないことのように感じてしまうということが往々にして起こっているのではないでしょうか。

 このように、現代の若者にとっては、政治や選挙というもの対して無関心になる以前に、自身の感情や要求というところにいたるまで”無関心”にさせられてしまうような状況が存在しているだと思います。

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