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バナナマン日村勇紀氏のスキャンダルについて(2)

2、 性犯罪の本質について

1で述べたように、未成年への淫行という重大な犯罪行為であるにも関わらず、加害者を擁護し、被害者にバッシングを加えるという逆転現象が起きてしまうのはいったいなぜなのか。私はその一つの理由に、現在の日本において性犯罪の本質に対する市民の認識不足があると考えます。この章では、性犯罪の本質、特に被害者に対してどれだけ深い傷を負わせる行為なのか、そしてこのような卑劣な行為が起きてしまう原因についても簡単に触れたいと思います。


(1)性犯罪によって被害者が被る傷

 まずは、性犯罪というものが被害者にどのような傷を負わせるものなのかということについてです。これは、実際に被害者の手記を読んでもらうのが一番だと思います。ということで、1997年11月に実際に起きた集団レイプ事件の被害者の手記についての記事を読んでいただきたいと思います。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20180501-00084681/

すでに事件から20年が経過していますが、被害者の女性はいまだに当時の傷に苦しめられています。

事件後、不眠、震え、記憶喪失、自殺未遂、集中力の低下、不明熱、リストカット、頭痛、吐き気、胃痛、耳鳴り、精神不安定、自尊心の低下と、列挙すればきりがなく、当事者の辛さを想像するのは非常に難しく、文章にするものためらわれる思いです。
「性犯罪は魂を犯す」と言われますが、まさしく20年前の事件の日に、この被害者の女性は“魂を侵された”のだと思います。


(2)性犯罪後も受ける被害者の傷(二次受傷)

 そしてもう一つ、性犯罪被害者にとって恐ろしいのが“二次受傷”と言われる、事件後の周囲の人々によって傷つけられる行為です。
 このことについて、臨床心理士の山田ゆりさんが、NEWSSALT編集部のインタビューに答えるかたちで指摘しています。

https://www.newssalt.com/27107

「性別を問わず性被害に遭った人たちは、それについて語ることに二重の障壁を感じていると思います。性的な被害に遭うということは、その人の尊厳や自尊心を踏みにじられることにほかなりません。このため、被害者が屈辱感、恥辱感を感じてしまい、『自分自身が汚された、傷ものになった』という感覚が生じて、自分自身を恥ずべきものだと思ってしまいます。これが第一の障壁であると言えます。

 そして二つ目の障壁となるものが、被害者が社会からも実際にそのように見られているという点にあります。そのことを被害者もわかっていますから、性被害に遭ったと訴え出ることで、自分自身が被害者であるにも関わらず、社会から非難を浴びることへの恐怖が存在するのです。

 そして『被害者に非があった』という非難は、見知らぬ他人からだけでなく、身近な家族や友人からさえも受けることがあります。これは”二次被害”や”セカンドレイプ”と呼ばれるもので、被害によって傷ついている被害者の心情をさらに傷つけることになります。被害者は自分を悪いもの、無力なものと感じ、自己否定し、絶望感から死にたいとさえ考えるようになってしまいます。」


 上記の山田氏の指摘の通り、性被害者は事件の行為自体で深く傷つけられるだけではなく、事件後も、周囲の誤解や偏見によってさらに傷口をえぐられるような体験を負わされるということが実際に起こっているのです。

 基本的に、被害者にはこうした二重の苦しみがあるのだという認識があれば、当該被害者に対してバッシングをしようと考える人はまずいないでしょう。

 だからこそ今回の日村スキャンダルの件でも被害者の女性をバッシングしている人たちは、性犯罪被害者のこうした事件による深い傷、そしてバッシングによる二次受傷によって、いっそうその傷がさらに深くなるといった認識が基本的に不足しているのではないでしょうか。


(3)性犯罪の加害要因について

それにしても、そもそも日村氏はなぜこのような行為に及んでしまったのでしょうか。

『子どもへの性的虐待』(岩波新書・2008年)において、著者の森田ゆり氏は子どもへの性加害者の動機として3つ挙げています。

①情緒的癒着欲求・・・この要素の典型的な例は、自分の強さ、他者への支配力を確認したい欲求。(性関係において男は強く支配的であれという社会通念に影響される)

②性的刺激・・・こどもと性的に関わることが身体的欲求を満たす。(情緒的・精神的な欲求を性行為によって満たそうとする男性に多くみられるこの動機は、子どもポルノの氾濫などにみられる社会的・文化的環境に影響される。)

③阻害・・・子どもしか性的満足を得られる対象がない。(例えば成人女性と対等に人間関係を持てない男性)

 上記の3つの点で重要なのは、性犯罪というものは、性欲を満たす目的だけで起こることとは限らず、加害者の情緒的・精神的欲求を満たす“手段”としても行われることがあるということです。

 また、2018年2月6日付のウオールストリートジャーナルでは、「(性犯罪に関わる)悪い行動は、自らがパワーレスであることに対する防御反応だ」というタイトルで、メアリーワシントン大学のキル・マーティン教授の言葉を下記の通り紹介しています。

「権力というものは男性が女性を不適切に扱う機会を創り出すことがある。だが、そうした機会を利用しようとする男たちのなかには、過去にパワーレス(無力)だと感じていたが、その後に突然権力を得たという人がいた。研究によると、この種の男性は、自分に権力が足りないと慢性的に思い続けてきた人であって、職場で不適切な注目を浴びようとしたり、ハラスメント(嫌がらせ)的な行為をしたりする公算が極めて大きかったという。」

 つまり、それまでの人生において“パワーレス”と感じていた加害者が、自身の有力感を得るために、性犯罪行為を行い、被害者を支配する。ということをキル・マーティン氏はここで指摘しているのだと思います。

 私はこのキル・マーティン氏の「パワーレスであることの防御反応」という指摘こそが日村氏のケースにおいて重要な視点であると考えています。16年前といえば、バナナマンがちょうど全国ネットにも出演しはじめ注目と人気が上昇し始めた時期と重なります。

 高校時代はテニス部のキャプテンや生徒会長などを務め、女性にも人気だった日村氏が、芸能界入り後、初めて組んだ相方とのコンビ解消、体形をはじめとする容姿の変化、バナナマン結成後10年程度の不遇の時期を過ごし、時にはブサイク芸人などと揶揄される中で、自尊心が損なわれ、無力感に囚われつつあったのではないでしょうか。

上記の森田氏の挙げた加害要因の一つに”情緒的・精神的欲求”がありましたが、日村氏にとって16年前の事件は、こうした自身の”パワーレスであった状態の解消”、そして具体的には不遇の時代に失った自尊心などのまさしく”情緒的・精神的欲求の埋め合わせ”という目的があったのかもしれません。


とはいえ、これは私の想像でしかないわけで、実際のところ日村氏が実際にどのような理由でこうした行為に及んだのかはわかりませんが、たとえ日村氏自身がそれまでの人生でパワーレスにならざるを得ない、何かしらの同情すべき要素があったとしても、日村氏の行った行為が許されないことであることには変わりはありません。


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