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『寅さんの存在』①

 社会としての”溜め”が無くなってきているのではないか・・。そんなことを最近よく考える。

 湯浅さんが近年よく使っている”溜め”という言葉、今の社会について語る上で絶対不可欠な言葉だなって思う。

 そう、今の社会において”溜め”というものが存在しなくなってきていると思う。”効率第一””無駄の削減”は新自由主義を表す上でもっとも代表的な思想だけれど、社会の隅々までこの号令が浸透している事実こそが、”溜め”を奪っている最大の要因だろうと思う。

 以前は今ほど”溜め”のない社会ではなかったのだろう。経済的にも、人間関係の上でも、精神的にも”溜め”が昔はもっとたくさん存在しており、一言でいえば生活に”余裕”があったのだ。
 人々の中で”余裕”があるということは良いことだと思う。経済的に余裕があれば、食事も趣味も自己実現のために選択肢が増えますし、人間関係や精神的に余裕があれば、なにより”安心”して生活することが可能です。

 逆に、人々の中でそうした余裕が奪われるということはいかなる状態なのでしょうか。さまざまな弊害が想像できるでしょうが、一つ間違いなく挙げられるのは、”社会的な弱者の居場所が奪われる”ということではないでしょうか。

 社会的弱者、つまりお年寄りや子ども、障害者や女性などのことです。今の社会を観た時にこれらの社会的弱者の居場所がことごとく奪われているということは明らかであると思います。
 肥大化する老人医療費を削減するために、後期高齢者医療制度を創設したり、世界トップレベルの高い学費を支払うために、バイトに励む学生、高すぎる利用料のためにさまざまな福祉サービスを受けれなくなった障害者の方々、女性であるというだけで、就職難や給料が低い処遇をうける女性たち・・。どれをとってもこの社会が少し余裕ももてるようになるだけで解決できる問題を、自分たちの責任で抱え込まざるを得ない状態に置かれているのだと思います。

その結果、人々の余裕のなさが、老人の方々のペースに合わせられずイライラしたり、障害のある方を避けるようになったり、女性だからとののしったり、子どもの行動に不寛容になってしまったりといったことが起こってしまっているのが今の社会の現状ではないでしょうか。

 こうした状態を一言でいえば、あらゆる問題を自己において責任をとれる能力のある人以外は排除される社会であると思います。自分自身の力で問題を解決していける能力のない人は、うとまれ、排除されるのです。

 ある特定の能力をもった方だけが優遇され、それ以外の方は排除される。そういう状態が続けば最後には人々の価値観すら多様性を持たないものとなってゆくのでしょう。

 
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