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心と言葉と身体をつなぐもの③

 そもそも、私が”表現”することについて考え始めたきっかけというものは、自身の」”他者に言葉が届かない”という経験が元にあるのだと思う。
 
 そうした経験は何度も体験してきているけれども、2つの経験を挙げたいと思う。
 
1つは、仲間が、悩み苦しんでいる時に、相手に意味のある言葉がかけられなかったという経験です。
 
 学生時代に、自分に自身がなく悩んでいた仲間に対して、その仲間をなんとか励まそうと思い、自分なりにいろいろ学んだり考えたりしながら、それなりに努力はしてきたと思います。しかし、私から仲間にかける言葉はきっとその仲間にとってそれほど意味をもっていませんでした。

 ”意味をもっていませんでした”と断言できるのは、その仲間がそういっていたというわけではないですが、いくら私が鈍感だったとしても、自分の言葉が相手にとって伝わっているか伝わっていないかくらいは想像することはできるつもりです。
 仲間の表情やその後の振る舞いをみている限り、私の言葉はあまり意味を持っていないであろう事くらいは判断できました。

 2つ目は、サークルの運営についてです。学生時代のサークルの運営に当たって、私は後悔していることがあり、それは私が独善的な運営の仕方をしたということです。会議で私が発言したときに、他の皆が「それはちょっと・・」というような感じの顔をしているのはわかっていたのですが、わかっていながらも自身の意見を、正論を押し通したことも何度もあったかと思います。

 どちらの例も、仲間に私の言葉が届かなかった理由は今から振り返ると、当時の私が仲間にとって受け入れがたい何かがあるとわかっていたにもかかわらず、自分の弱さから時に、仲間の負の部分から眼を背けたり、権威的に振舞ったりしたことが原因だったのだろうと思います。


 以前”言葉が届く”ということに関して、とても参考になった論文がありました。それが『生徒にことばが届くとき-生徒が教師のことばに応答するとき-』という”高校生活指導”という雑誌の2005年秋号に掲載された竹内常一さんの論文でした。

 この論文の中で竹内さんは”はじめに”「いま教師のことばが生徒に届かない」ことが教師たちの切実な問題になっている」と問題提起しています。

 その上で、「『教師のことばが生徒に届く』『教師のことばに生徒が応答する』といったことはこれまで本当にあったのだろうか。実際に両者の間にあったのは、対話的な関係でなく、権威=服従的な関係であって、その中では教師のことばは『無条件な承認』をもとめるものであったのではないか。」と述べています。

 そして「このように受容と承認を強いる教師の言葉は、バフチンによると、権威性・伝統性・公認性・公式性を盾にして、世界に対する特定の関わり方、特定の見解と行動を一方的に強制する『権威的な言葉』である」と指摘しています。

 この論文の重要な点は、後半部で指摘されていることですが、それはまた次の機会に触れたいと思います。

 私はこの論文をよんで、いかに自身の言葉が、権威的だったかということについて反省させられました。自分の弱さや相手の唇状に目を背けたまま、相手が真に納得できたり、励まされたりするような言葉をつむぐことが出来るはずがありません。それが心のそこではわかっていたからこそ、自身の言葉に権威的なもの、上でも触れてますが、公正性や正論を語ることで強引に納得なりしてもらおうとしてのです。

 心と身体と言葉をつなぐもの①・②で紹介した一青窈さんだったり、先輩の言葉というものは、そうした自身の弱さや相手の心情に眼を背けないものであったからこそ、真に相手の心に届く言葉であり表現になりえたのだと思います。

 私が他者に対して表現する際に、権威的なものになったり、方法論的なものに陥ったりせず、自身や他者の心情に目を背けない、真の表現ができるような人間を目指していきたいものだと思います。

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