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居場所と社会参画の間①

―引用―

 「野宿の運動のときからわれわれにとっては自然にやってきたことですが、人間関係を作り直すということです。貧困状態に追い込まれた人は、人間関係を含めて失うということが、かなり共通していることですから。そういう意味では、新しい人間関係を結びなおす場所を活動の中に持ってるということが、貧困問題に取りくむ基本的な条件になってくると思います。そういう人間関係のプールを、私は「溜め」といってます。

・・・私たちは野宿の運動が出発点ですから、当然最初からみんな切れちゃってますよね。路上で人間関係を一から作り直すというところでやり始めた。その意味では、貧困問題にかかわることによる領域、独自の領域というものがあると思います。それは社会資源をつくることだけではなくて、その居場所を、もう一つ自分の活動の中に抱え込む。それは私はちょっと挑発的にというか、居場所-闘わなくてもいい場所-が活動の中にあるくらい、活動が「溜め」を持たないといけないんだ、というふうに言うんですけど。そういう懐の深さを活動が持つようにならないと、貧困の当事者が怒ることもできないのだと。「こういう目にあったんだから、怒んなきゃいけない」というのは、いわば、「あんたもう働けるはずだから働きなさい」と同じで、怒りの強要は、仕事の強要と変わらない。もともとそのためには膨大なエネルギーがいるわけです。その「溜め」を、回復して大きくするくらいの場所を活動の中に抱え持っていかないと、「生活保護をとった」だの、「労働争議を解決した」といってもその先がなかなか開いていけない。そういう意味での人間関係の「溜め」という次元を視野に入れて、その回復のための居場所つくりを活動の一環にビルドインする、それが貧困問題に携わる活動の特徴だと思います。

・・・同時に難しさを感じるのは、まあ、「もやい」でも、そういう居場所を持っているから感じるんですが、居場所というのは「何でもあり」だから居場所になるんであって、異議申し立てが自然に起こってくることはなかなかないんですね。また異議申し立ての話を繰り返しすると、そこは居場所としての意義を失って、そうじゃない人はいちゃいけないという場所になってしまう。そういう意味では、社会運動とかロビイングとか、そういう政治的・社会的な動きと、居場所の持っている「まったり性」みたいなのを、どう活動の中で両立させるのか、というのは結構難しい問題ですね。「もやい」はとりあえず役割分担をすみ分けてやってます。一人の人が両面の顔をしようと思っても、それは無理だから、二つの中心があるような、楕円の活動をするというか。そういう活動の仕方で、人がどっちでも往復できる。まったりしたければそっちにいけるし、 何かやりたければこっちのもこれるというような、そういうスタイルをつくっていくことが大事かな、と思っています。

 一方で、この間、厚生労働省がどんどん「社会連帯」とか「相互扶助」とか「地域の支えあい」を強調しているのを見ると、そこに危機感を感じもします。その溜まり場をつくって貧乏人はずっと仲良く支えあってくださいと。行政は何もやりませんが、あんたたちでうまくやってよ、というようにいわれちゃってるところがあると感じます。だから居場所を「異議申し立てのできる社会連帯」に変えていける仕組みができないか。また居場所性を持たなかったいままでの活動の中に、そういう懐の深さ、たとえばこの人は組合員にぜったいならないという人を含めて一緒になにかをやるといったことです。活動はこういう面を併せ持つべきで、そこら辺は貧困の問題から提起できる視点だろうと思います。」

抜粋:「貧困研究vol1」― 明石書店 2009
   「反貧困運動の組織化と研究への期待」 P76~82 湯浅誠 インタビュー松本伊智朗


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